折たく柴の記
―新井白石の自叙伝―
自叙伝。三巻。新井白石(1657~1725)著。享保元年(1716)執筆開始。
書名は後鳥羽天皇の御製「おもひ出づる折たく柴の夕煙むせぶもうれし忘れがたみに」(『新古今和歌集』巻第八)によっている。
すぐれた学者であり政治家であった白石が、父祖のことから始めて自分の生いたちや経歴・事跡などを、簡潔平明な雅文でつづったもの。
明治以後とくに広く読まれ、福沢諭吉の『福翁自伝』と並んでわが国自伝文学の代表とみなされている。
むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、其義を尽したりけり。我父母にてありし人々もかくぞおはしける。(序)
明けの年の秋、また国にゆき給ひしあとにて、課をたてられて、「日のうちには、行・草の字三千、夜に入りて、一千字を限りてかき出すべし」と命ぜられたり。
冬に至りぬれば、日短じかくなりて、課いまだみたざるに、日暮んとする事たびたびにて、西向なる竹縁のある上に机をもち出て、書終りぬる事もありき。 また夜に入りて手習ふに、睡の催して堪がたきに、我につけられしものとひそかにはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲おかせて、いたくねぶりの催しぬれば、衣ぬぎすてて、まづ一桶の水をかゝりて、衣うちきて習ふに、初ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経ぬれば、身あたゝかになりて、またまたねぶくなりぬれば、又水をかゝる事さきの事のごとくす。
二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは課をもみてたりき。これ、我九歳の秋・冬の間の事也。(上巻 日課手習の事)
我師なる人は、我をばそのむかしつかへられし加賀の家にすゝめん事を思給て、そのあらましなど聞え給ひしに、加賀の人にて岡島といふが、すなはち忠四郎の事。
我を頼みたりしには、「我本国に老たる母のあれば、いかにもして先生推薦給らむ事を申して給るべし」といふ。
我其事の由をつぶさに申して、「某つかへに従はん事は、いづれの国をも撰ばず。彼人は老たる母の候なる国にて侍れば、某に代てすゝめられん事、某も又望む所也。けふよりしては、某を以て彼国にすゝめられん事、固く辞申す」由を申切りてげれば、此ことをつくづくときゝ給ひ、「今の代、誰かはかゝる事をば申すべき。古人を今に見るとはかゝる事にこそ」との給ひて、涙を流し給ひしが、此後、常に此事をば人々にも語り給ひたりけり。
されば、やがて岡島をば彼国にすゝめられき。(上巻 加賀の仕途を人に譲る事)
五世にして諱む事なきは古の礼也。また子としては、父の諱を避け、臣としては君の諱を避く。これ臣子の情忍びがたき所あるが故なり。
いかむぞ隣国の君をして、其臣子と同じく、国諱避けしむる事のあるべき。たとひ又両国の君、其国諱を相避るの事あらむにも、その七世の国諱を避くべき事、古にあらず。 ましてや、「己が欲せざる所をば施す事なかれ」といふ事あり。其国のまいらせし書を見るに、まさしく当代御祖考の御諱を犯しぬ。
其国七世の諱をだに避給はるべしと申さむものの、いかんぞ我国の御祖諱を犯せしものをもち来れる。其申す所ことごとく皆無礼の事也。某かゝる事申さむ事かなふべからず。(中巻 諱を避くる議の事)
古より此かた、父のために夫殺されて、死するに及ばねど、身を終るまで其義を守れる女すくなからず。古人其死せざるがために、其節を小しきなりとはせず。……
凡そ人の婦たるもの、其夫のために義なるべきは、なほ人の臣たるものの、其君のために忠なるべきがごとし。……
哀哀たる寡婦、すでに其託する所を失ふ。青松之色、歳寒に改ることなからむこと、いまだ必とすべからず。某ひとり其婦節を失はむことを惜むのみにあらず。たゞ恐らくは、官法を毀ふことあらむことを。
我国の俗、父を喪し、夫を喪し、僧となり、尼となるものすくなからず。微くに人をして風ぜしむるに、父と夫とのために尼とならむ事を以てし、尼寺に送り入れて、剃髪授戒せしめ、父と夫との財産を幷せて其寺に施し入れて、彼飢寒ノ患を救はむには、官法婦節ふたつながら全からむ。(下巻 正徳中疑獄の事)