蘭学事始
―蘭学草創期の回想録―
江戸後期に書かれた回想録。二巻一冊。杉田玄白作。文化十二年(1815)成立。
蘭学の沿革を述べ、初期の蘭学者らの苦心談を晩年に回顧したもの。とくに『解体新書』翻訳のときの共同研究における苦心談は圧巻。
書名は明治二年(1869)に福沢諭吉によって初めて刊行されるまで、『和蘭事始』『蘭東事始』と呼ばれていた。
蘭東事始 上之巻
今時、世間に蘭学といふ事専ら行れ、志を立つる人は篤く学び、無識なる者は漫りにこれを誇張す。
其初を顧み思ふに、昔、翁が輩二三人、不図此業に志を興せし事なるが、はや五十年にちかし。
今頃斯く迄に至るべしとは露思ざりしに、不思議にも盛になりしことなり。
漢学は、中古に遣唐使といふ者を異朝へ遣され、或は英邁の僧侶などを渡され、直に彼国の人に従ひ学せ、帰朝の後、貴賤上下へ教導のためになし給ひし事なれば、漸く盛なりしは尤の事なり。
此蘭学ばかりは左様の事にもあらず。しかるに、かく成行しはいかにと思ふに、夫医家の事は、其教かた惣て実に就くを以て先とする事故、却て領会する事速かなるか、又は事の新奇にして異方妙術もある事の様に世人も覚居る事故、奸猾の徒、これを名として、名を釣り、利を射る為に流布するものなるか。
つらつら古今の形勢を考ふるに、天正・慶長の頃、西洋の人漸く我西鄙に船を渡せしは、陽には交易によせ、陰には欲する所ありてなるべし。
故に、其災起りしを国初已来甚だ厳禁の事とはなりし。これ世に知る所なり。
其邪教の事は知らざる所の他事なれば論なし。但シ、其頃の船に乗来りし医者の伝来を受たる外科の流法は世に残れるもあり。
これ世に南蛮流とはいふなり。其前後より阿蘭陀船は御免ありて、肥前平戸へ船は来タしぬ。
異船御禁止になりし頃も、此国は、其党類にはあらざる次第ありて、引続き渡来を許させ給ひぬ。それより三十三ヶ年目にて、長崎出島の南蛮人を逐払ひて、其跡え居を移せしよし。
それよりは年々長崎の津に船を来すこととはなりぬ。これは寛永十八年の事なるよし。
其後、其船に随従し来る医師に、亦彼の外治の療法を伝へし者も多しとなり。これを阿蘭陀流外科とは称するなり。
これもとより横文字の書籍を読み、習覚しことにはあらず、たゞ其手術を見習、其薬方を聞、書留たるまでなり。
尤、こなたになき所の薬品多ければ、代薬がちなるを以て、病者を取扱しことと知らる。
しかるに、此節、不思議に彼国解剖の書手に入りしことなれば、先其図を実物に照し見たきと思ひしに、実に此学開くべきの時至けるにや、此春其書の手に入りしは、不思議とも妙とも云んか。
抑、頃は三月三日の夜と覚たり、時の町奉行曲淵甲斐守殿の家士得能万兵衛といふ男より手紙もて為知越せしは、「明日、手医師何某といへる者、千寿骨ヶ原にて腑分いたせるよしなり。御望ならば、彼かたへ罷越れよかし」と言文おこしたり。
兼て、同僚小杉玄適といふ者、其已前京師の山脇東洋先生の門に遊び、彼地に在し時、先生の企にて観蔵の事ありしに、此男、随ひ行て親しく視たるに、古人所説皆空言にて、信じがたき事のみなり。
「上古九臓と称せり。今五臓六腑の目を分ちたるは後人の杜撰なり」なんどいへる事の話もありし。其時、東洋先生、臓志といふ著書も出し給ひたり。
翁、其書をも見し上の事なれば、よき折あらば、翁も自ら観臓してよと思ひゐたりし。
此時、和蘭解剖の書も初て手に入事なれば、照し視て、何れか其実否を試べしと喜び、一かたならぬ幸の時至れりと、彼処へ罷る心にて、殊に飛揚せり。
扨、かゝる幸を得しことを、独り見るべき事にもあらず、朋友の内にも、家業に厚き同志の人々へは知らせ遣し、同じく視て、業事の益には相互になしたきものと思ひ量りて、先同僚中川淳庵を初、某誰と知せ遣せし中ヵに、彼良沢へも知らせ越たり。
扨、良沢は、翁よりは齢十斗も長じ、我よりは老輩の事にてありし故、相識にこそあれ、常々は往来も稀にし、交接うとかりしかど、医事に志篤きは互に知り合たる中なれば、此一挙に漏すべき人にはあらずと、先早く申やりたく思ひたれども、さしかゝりし事、且、此夜も、蘭人滞留の折なれば、彼客屋に在ける故、夜分にはなりぬ。
俄に知らすべき便りもなし。いかにせんと存ぜしが、臨時の思ひ付にて、先手紙調へ、知れる人の許に立寄、相謀りて、本石町の木戸際に居たりし辻駕の者を雇ひ、申遣せしは、「明朝しかじかの事あり。望あらば、早天浅草三谷町出口の茶店まで御越あるべし。翁も此所まで罷越待合すべし」と認め、「置捨にて帰れ」と持せ遣しけり。