蜻蛉日記
―結婚生活に苦しんだ女性の半生記―
日記。三巻。平安中期の歌人藤原道綱母作。天延二年(974)以後の成立。
天暦八年(954)藤原兼家と結婚してのち、一子道綱をもうけたものの、夫の兼家が多くの妻をもち、兼家が通わなくなって夫婦関係が絶えるまでの結婚生活を記している。
一夫多妻の上流貴族社会の中で、不安定な結婚生活に苦悩や嫉妬や絶望を重ねながら、やがて一子道綱への愛や、芸術の世界に平安を見いだしていく21年間の心の遍歴を自伝風につづる。
本文中の名歌「歎きつゝ独り寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」は『百人一首』にも入れられている(53首目)。
のちの『源氏物語』などの女流文学に大きな影響を与えた。
一 人にもあらぬ身の上(序)
かくありし時過ぎて、世中に、いとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。
容貌とても、人にも似ず、心魂も、あるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと、思ひつゝ、たゞ臥し起き明かし暮すまゝに、世の中に多かる古物語の端などを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで日記して、めづらしきさまにもありなむ、天下の人の、品高きやと、問はむ例にもせよかし、と、おぼゆるも、過ぎにし年月ごろの事もおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむ、多かりける。
二 兼家の求婚
さて、あはつかりし好き事どものそれはそれとして、柏木の木高きわたりより、かく言はせむと思ふことありけり。
例の人は、案内するたより、もしは、なま女などして、言はすることこそあれ、これは、親とおぼしき人に、たはぶれにも、まめやかにも、ほのめかししに、「便なきこと」と言ひつるをも、知らず顔に、馬にはひ乗りたる人して、打ち叩かす。
「誰」など言はするにはおぼつかなからず騒いだれば、もて煩ひ、取り入れて、もて騒ぐ。
見れば、紙なども例のやうにもあらず、至らぬ所なしと聞き古したる手も、あらじとおぼゆるまで悪しければ、いとぞあやしき。ありけることは、
音にのみ聞けば悲しなほとゝぎすこと語らはむと思ふ心あり
とばかりぞある。「いかに。返りごとは、すべくやある」など、さだむるほどに、古代なる人ありて、「なほ」と、かしこまりて、書かすれば、
語らはむ人なき里にほとゝぎすかひなかるべき声な古しそ
十三 町の小路の女
これより、夕さりつ方、「内裏にのがるまじかりけり」とて出づるに、心得で、人をつけて見すれば、「町の小路なるそこそこになむ、とまり給ひぬる」とて来たり。
さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二、三日ばかりありて、暁方に、門をたゝく時あり。さなめりと思ふに、憂くて、開けさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。
つとめて、直もあらじと思ひて、
歎きつゝ独り寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
と、例よりは、ひきつくろひて書きて、うつろひたる菊に挿したり。返りごと、「あくるまでも試みむとしつれど、とみなる召使の、来合ひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。
げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も遅くあくるはわびしかりけり」
さても、いとあやしかりつるほどに、事なしびたり。しばしは、忍びたるさまに、「内裏に」など言ひつゝぞあるべきを、いとゞしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや。
- 蜻蛉日記(ウィキペディア)