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十六夜日記いざよいにっき
―女性歌人が記した紀行文―

鎌倉中期の紀行文。一巻。阿仏尼あぶつに作。弘安三年(1280)ごろ成立。

夫藤原為家ためいえの死後、弘安二年(1279)、遺産相続の争点となった実子為相ためすけの所領確保を鎌倉幕府へ訴えに下向した折の紀行的日記。

書名は、出立に際しての心境「身をえうなきものになし果てて、ゆくりもなく、いさよふ月にさそはれ」にちなむ後人の命名ともいわれる。

旅日記と鎌倉滞在記、勝訴祈願の長歌の三部からなる。多くの和歌を挿入し、擬古文体を用いる。

序章
 昔、かべのなかより求め出でたりけむふみの名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも身の上のこととは知らざりけりな。

水くきの岡の葛原くずはら、かへすがへすも書き置く跡たしかなれども、かひなきものは親のいさめなり。

 また、賢王の人を捨て給はぬまつりごとにもれ、忠臣の世を思ふなさけにも捨てらるゝものは、数ならぬ身ひとつなりけりと思ひ知りなば、またさてしもあらで、なほこのうれへこそ、やるかたなく悲しけれ。

 しからぬ身ひとつは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇はなほ忍びかたく、道をかへりみる恨みはやらむかたなく、さてもなほあづまの亀の鏡に写さば、曇らぬ影もや現はるゝと、せめておもひあまりて、よろづのはゞかりを忘れ、身をやうなきものになし果てゝ、ゆくりもなく、いさよふ月にさそはれ出でなむとぞ思ひなりぬる。

旅路の章
 粟田口あはたぐちといふ所より、車は返しつ。ほどなく逢坂あふさかの関越ゆるほども、

さだめなき命は知らぬ旅なれどまたあふ坂と頼めてぞゆく

 野路のぢといふ所は、しかた行くさき人も見えず。日は暮れかゝりて、いと物がなしと思ふに、時雨しぐれさへうちそゝぐ。

うちしぐれふるさと思ふ袖ぬれて行くさき遠き野路のしの

 こよひは鏡といふ所に着くべしと定めつれど、暮れはてゝ行き着かず。守山といふ所にとゞまりぬ。こゝにも、時雨なほ慕ひ来にけり。

いとゞなほ袖ぬらせとや宿りけむまなくしぐれのもる山にしも

今日けふは十六日の夜なりけり。いと苦しくてうちしぬ。

望郷の章
 都のおとづれは、いつしかにおぼつかなきほどにしも、宇津うつの山にて行き逢ひたりし山伏のたよりに、ことづけ申したりし人の御もとより、たしかなる便宜びんぎにつけて、ありし御返しごととおぼしくて、

旅衣たびごろもなみだをそへてうつの山しぐれのひまもさぞしぐるらむ

ゆくりなくあくがれ出でしいさよひの月やおくれぬかたみなるべき

 都を出でしことは、神無月十六日なりしかば、いさよふ月をおぼしめし忘れざりけるにやと、いとやさしく、あはれにて、ただこの返り事ばかりをぞ、またきこゆる。

めぐりあふ末をぞ頼むゆくりなく空にうかれしいさよひの月

献歌
敷島しきしまや やまとの国に、天地あめつちの ひらけはじめし むかしより、岩戸をあけて、おもしろき 神楽かぐらのことば 歌ときく。さればかしこき ためしとて、ひじりの世にも 捨てられず 人の心を 種として、よろづのわざに なりければ、鬼神おにがみまでも なびくなり。八島やしまのほかの 四つの海、なみも静かに 治まりて、空吹く風も やはらかに、枝も鳴らさず、降る雨も 時さだまれば、君々の みことのまゝに したがひて、和歌の浦路うらぢの 藻塩草もしほぐさ、かきあつめたる 跡おほし。