奥の細道(おくのほそ道)
―松尾芭蕉の俳諧紀行文―
俳諧紀行。一冊。松尾芭蕉作。元禄十五年(1702)刊。
元禄二年(1688)三月二十七日、門弟曾良を伴って江戸深川を出発、奥州、北陸の名所旧跡を巡り、同年九月六日伊勢に向うため大垣に到着するまでの紀行を記したもの。
五十句(他に曾良の十一句と江戸・美濃の俳人の各一句)の発句と簡潔な地の文とがよく調和し、紀行文学の代表作といえる。
この紀行は、「不易流行」の考えを芽生えさせたこと、『猿蓑』の円熟境を生み出すもとになったことなど、その意義は大きい。
序文
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず、もゝ引の破れをつゞり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先づ心にかゝりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置く。
平泉
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて、大河に落入る。
康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
偖も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり。城春にして草青みたり」と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良
立石寺
山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。梺の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。
岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り土石老いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入る蟬の声
最上川
最上川のらんと、大石田と云ふ所に日和を待つ。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此の道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。こてん・はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。
板敷山の北を流れて、果は酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。
白糸の瀧は青葉の隙々に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやうし。
五月雨をあつめて早し最上川