紫式部日記
―『源氏物語』作者の仮名日記―
平安中期の仮名日記。二巻。紫式部著。寛弘七年(1010)ごろ成立。
紫式部が仕えた土御門殿における敦成親王の誕生を軸に精細に描写した日記部分と、他の女房の批評や自己の生い立ち、性格、心境などを回想、述懐した消息的部分からなる。
とくに清少納言に対する批判は痛烈を極めており、式部の内面を知る資料としても貴重である。『紫日記』とも。
秋のけはひ入り立つままに、土御門殿の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。 御前にも、近うさぶらふ人々はかなき物語するを聞こしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもてかくさせ給へる御有様などの、いとさらなることなれど、憂き世のなぐさめには、かかる御前をこそたづねまゐるべかりけれと、現し心をばひきたがへ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。(一)
東面なる人々は、殿上人にまじりたるやうにて、小中将の君の、左の頭の中将に見合せて、あきれたりしさまを、後にぞ人ごと言ひ出でて笑ふ。化粧などのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顔づくりしたりけるを、泣きはれ、涙にところどころ濡れそこなはれて、あさましう、その人となん見えざりし。宰相の君の、顔がはりしたまへるさまなどこそ、いとめづらかにはべりしか。ましていかなりけん。されど、その際に見し人の有様の、かたみにおぼえざりしなむ、かしこかりし。
今とせさせたまふほど、御物怪のねたみののしる声などのむくつけさよ。源の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人にはそうそといふ人、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局にはちそう阿闍梨をあづけたれば、物怪にひき倒されて、いといとほしかりければ、念覚阿闍梨を召し加へてぞののしる。阿闍梨の験の薄きにあらず、御物怪のいみじうこはきなりけり。宰相の君のをぎ人に叡効を添へたるに、夜一夜ののしり明かして、声もかれにたり。御物怪移れと召し出でたる人々も、みな移らでさわがれけり。(十二)
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならんと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらん。(五十)
- 紫式部(ウィキペディア)
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- 作者別作品リスト:紫式部(青空文庫)