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更級日記さらしなにっき
―女の一生を綴った日記文学の代表作―

日記。一巻。菅原孝標女たかすえのむすめ著。康平三年(1060)ごろ成立。

十三歳の折、父の任国上総(千葉県)から帰京した旅に筆を起こし、夫、橘俊通と死別した翌年五十二歳頃までの回想記。

幼時、草深い東国ではぐくまれた物語世界への幻想が、成長してのちに体験した厳しい現実生活の中で挫折し、ついに信仰世界の中に魂の安住を求めようとした。

物語世界への幻想も弥陀の救済への信仰も、ともに仮構された非現実世界への憧憬である点で変わりはなく、むしろ最晩年の孤絶の境涯の中に、作者の諦観ていかんが示されている。さらしなのにき。

かどで
 あつまの道のはてよりも、なほ奥つかたにひいでたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、つれづれなるひるま、よひゐなどに、姉継母まゝはゝなどやうの人々の、その物語、かの物語、光る源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、わが思ふまゝに、そらに、いかでかおぼえ語らむ。

いみじく心もとなきまゝに、等身に薬師仏をつくりて、手あらひなどして、人まにみそかにいりつゝ、「京にとくあげ給ひて、物語のおほくさぶらふなる、あるかぎり見せ給へ」と、身をすてゝぬかをつき、いのり申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月ながつき三日門出して、いまたちといふ所にうつる。

 年ごろあそびなれつるところを、あらはにこぼち散らして、たちさわぎて、日の入りぎはの、いとすごくきりわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まには参りつゝ、ぬかをつきし薬師仏のたち給へるを、見すてたてまつる悲しくて、人しれずうち泣かれぬ。

 門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋かややの、しとみなどもなし。すだれかけ、幕などひきたり。

南ははるかに野のかた見やらる。ひむがし西は海ちかくて、いとおもしろし。夕霧立ち渡りて、いみじうをかしければ、朝寝あさいなどもせず、かたがた見つゝ、こゝを立ちなむこともあはれに悲しきに、同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下野国しもつさのくにのいかたといふ所に泊まりぬ。

いほなども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくていも寝られず。野中に岡だちたる所に、たゞ木ぞ三つたてる。その日は雨にぬれたる物どもし、国にたちおくれたる人々待つとて、そこに日をくらしつ。

 十七日のつとめて、立つ。昔、下総国しもつさのくにに、真野のてうといふ人住みけり。引布ひきぬのむら、よろづむら織らせ、さらさせけるが家のあととて、深き河を舟にて渡る。

昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、河の中に四つ立てり。人々歌よむを聞きて、心のうちに、

ちもせぬこの河柱のこらずば昔のあとをいかで知らまし

 その夜は、黒戸浜くろとのはまといふ所に泊まる。片つかたはひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじうあかきに、風の音もいみじう心ぼそし。人々をかしがりて歌よみなどするに、

まどろまじこよひならではいつか見むくろどの浜の秋のの月