春色梅児誉美
―春水による人情本の代表作―
人情本。四編十二冊。為永春水作。初・後編は天保三年(1832)刊、三・四編は天保四年刊。
吉原の遊女屋唐琴屋の養子丹次郎と、芸者米八、その同僚の仇吉、丹次郎の許嫁お長を配しての複雑な三角関係の恋愛を描いた風俗小説。
春水の人情本は本作品によって確立された。
初編 巻之一
第一齣
野に捨た笠に用あり水仙花、それならなくに水仙の、霜除ほどなる侘住居、柾木の垣も間原なる、外は田畑の薄氷、心解あふ裏借家も、住ば都にまさるらん。
実と寔の中の郷、家数もわづか五六軒、中に此ごろ家移か、万たらはぬ新世帯、主は年齢十八九、人品賤しからねども、薄命なる人なりけん、貧苦にせまる其うへに、此ほど病の床にふし、不自由いわん方もなき、容体もときの吉不祥、いとゞ寒けき朝嵐、身にしみじみとかこち顔、独わびしき門の戸に
女「すこし御免なさいまし御免なさいまし
あるじ「アイどなたヱ
女「そふいふお声は若旦那さんといひつゝあける障子さへ、ゆがむ敷居にやうやうと、あけて欠込其姿、上田太織の鼠の棒縞、黒の小柳に紫の、やままゆじまの縮緬を鯨帯とし、下着はお納戸の中形縮めん、おこそ頭巾を手に持て、みだれし鬢の島田髷、素顔自慢か寐起の侭か、つくろはねども美しき、花の笑顔に愁の目元、亭主はびツくり顔うちながめ
主「米八じやアねへか。どふして来た。そして隠れて居る此所が知れるといふもふしぎなこと。マアマアこちらへ夢じやアねへか トおきかへりてすはる
よね「わちきやア最、知れめへかと思つて胸がどきどきして、そしてもふ急ひで歩行たもんだからア、苦しい トむねをたゝき 胭がひツつくよふだ トいひながらそばへすはり おまはんは煩つてゐさつしやるのかへ トかほをつくづく見て 寔にやせたねへ。マア色のわりいことは。真青だヨ。何時分からわるいのだへ
主「ナニ十五六日跡からヨ。大造なことでもねへが、どふも気が閉でならねへ。それはいゝが手めへまア、どふして知つて来たのだ。聞てへこともたんとある トすこしなみだぐみてあはれ也
後編 巻之四
第七齣
さても丹次郎は、二階より下りかゝりたる段階子、登る梅次と米八に、ぎよつと後を振向ば、かわゆき顔に茜さすりんきの眼元、露ふくむお長がうらみ。
米八も、それと見るより角目立こゝろを、やうやうおししづめ
よね「丹さん、待てお出といつたのに帰りそうにしておいでだトいひながら、お長に向ひ
「ヲヤお長さんまことにお久しいねへ。たいそうに美くしくおなりだ。そしてマア少しの中に背丈も延たことは。それじやアモウ何処へ娵にお出でも能といひながら、丹次郎の顔をじろりと見る。丹次郎は知らぬ顔で
丹「ほんにちつと見ねへうち大きくなつたのう。今其処で逢て見そくなつたくらひだ
よね「ナニ見そくなふこともあるまいねへ。お長さん、男といふものはどうもたのみになるやうで頼にならないもんだ。のう梅次さんトすこし丹次郎にあてる。
うめ「そりやアそうだけれど、なんでも女の気魂次第さ。此方が惚りやア他もほれるから由断をするといかないよ
三編 巻之七
第十三齣
恋ゆゑにやつす姿も誠と実、彼婦多川の米八が、今日召れたる梶原の、抱屋舗の亀戸村、茶会に寄来る客人へ、酌取役の彭簡、一座揃ひし大寄のその供部屋にしよんぼりと、人目つくろふ箱持に、なつて来りし丹次郎、待草臥て勝手より、庭につゞきし花畑月の明にうかれつゝ、思はず庭の端のかた、小高き岳に物好せし、放れ坐敷の椽側に、登りて見れば泉水の、向ふはさゞめく広座しき、終日過せし酒宴に、客も亭主も打混じ、取乱したる無礼講、手にとるごとき大さわぎを、詠て在しがうとうとと、寐気もよほす時しもあれ、息も閙しく欠来る人俤、何事やらん素足にて、此方の枝折戸突ひらき、欠込むはづみ立上る、丹次郎に行当り、互にびつくり月影に、すかしながめて
「丹さんかヱ
丹「ヲヤヲヤお長か。どふして此所ヘト問れても、しばし涙に口ごもりて、返答せざれば丹次郎、障子をあけて小坐敷の、うちへ抱入れ介抱し、
丹「ヲヽ大そうに動気がするのト、胸なで下せば心をしづめ
長吉「アヽ寔にこわかつた。それはそふとどふして丹さんおまへは此所にお出のだへ
四編 巻之十二
第二十四齣
善「それさへお聞申せば、直に方をつけますが、モシわたくしやア此本の作者に憎まれてでも居りますかしらん、野暮な所といふと引出してつかはれます。しかしマアマア善悪の差別がわかつておめでたい。いづれ近日、何もかもおさまる様になりませう、トいふこといふてそこそこに帰る善孝、其跡に此糸お蝶がはからずも、悦びいさむ春の色、めでたく開く梅ごよみ、吉日占て、それぞれにおさまる家の大略を、こゝにしるせば、彼お由は藤兵衛が妻となり、又此糸は半之丞が方へ行、お蝶が素生はこれより後、六郎成清の正しにて、近常が種なるよし相わかり、丹次郎がことを内々世話になりし恩といひ、操めでたき娘なれば麁略にならずと、我子丹次郎が別段に名跡をたつる心願かなひ、繁昌の基をひらく時に臨んで、お蝶は本妻となり、米八もひとかたならぬ貞実なれば、親の六郎へはれてお部屋さまとうやまはれ、いづれもその中睦じく、新造糸花、遣手の杉、判人等善人は、いづれもすゑずゑめでたくさかへ、また悪人はそれぞれに罪をかうむり、四人の女子はお由を第一とし、此糸を二ばんとなし、三番目を米八とし、四人目をお蝶とさだめ、歳のじゆんにて内々は姉妹のやくそくをなし、子宝おほくまうけつゝ、幾代かかほる春の梅、実いりをこゝに寿て、めでたく筆をおさめはべりぬ。