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けん胸算用むねさんよう
―町人の大晦日の様子を描く浮世草子―

浮世草子。五巻五冊。井原西鶴作。元禄五年(1692)刊。

二十の短編から成る。副題「大晦日おおつごもりは一日千金」。すべての話を大晦日の一日に設定、町人にとって金銭上の総決算日であったその日に起こるさまざまな悲喜劇を描く。

見栄を捨て、知恵才覚を働かせて生きる人々の心の動きを冷静な眼でとらえた、西鶴晩年の傑作。

巻一 長刀はむかしの鞘
 元朝ぐはんてうに日蝕六十九年以前に有りて、又元禄五年みづのえ、さる程にこの曙めづらし。

暦は持統天皇四年に儀凰暦ぎわうれきより改りて、日月のしよくをこよみの証拠に、世の人これを疑ふ事なし。

口より見尽して末一段の大晦日おほつごもりになりて、浄瑠り小うたの声も出ず、けふ一日のくれせはしく、ことさら小家がちなる所は、喧mojikyo_font_065066と洗濯と壁下地かべしたぢつゞくると、何もかも一度に取りまぜて、春の用意とていかな事、餅ひとつ小鰯ごまめ一疋もなし。

世に有る人と見くらべて、浅間敷あさましく哀れなり。

巻二 銀壱匁の講中
 人の分限ぶげんになる事、仕合せといふは言葉、まことは面々の智恵才覚を以てかせぎ出し、其家栄ゆる事ぞかし。

これ福の神のゑびす殿のまゝにもならぬ事也。大黒講をむすび、当地の手前よろしき者共集り、諸国の大名衆への御用銀の借入かしいれの内談を、酒宴遊興よりは増したる世のなぐさみとおもひ定めて、寄合座敷も色ちかき所をさつて、生玉いくだま、下寺町の客庵を借りて、毎月身体譣議せんぎにくれて、命の入日いりひかたぶく老体ども、後世の事はわすれて、ただ利銀のかさなり、富貴になる事を楽しみける。

巻三 小判は寐姿ねすがたゆめ
 「夢にも身過ぎの事をわするな」と、これ長者の言葉なり。思ふ事をかならずmojikyo_font_066351に見るに、うれしき事有り、悲しき時あり、さまざまの中に、かね拾ふ夢はさもしき所有り。

今の世に落とする人はなし。それぞれに命とおもふて、大事にかくる事ぞかし。いかないかな、万日廻向ゑかうの果てたる場にも、天満祭りのあくる日も、銭が壱文落ちてなし。

兎角とかく我がはたらきならでは出る事なし。

巻四 長崎の餅柱
 霜月晦日切つごもりぎりに、唐人とうじん船残らず湊を出て行けば、長崎も次第に物さびしくなりぬ。

しかしこの所の家業は、よろづからものあきなひの時分かねもふけして、年中のたくはへ一度に仕舞置しまひおき、貧福の人相応に緩々ゆるゆるとくらし、万事こまかに胸筭用をせぬところなり。

大かたの買物は当座ばらひにして、物まへの取りやりもやかましき事なし。正月の近づくころも、酒常住のたのしみ、この津は身過ぎの心やすき所なり。

巻五 平太郎殿
 古人も「世帯仏法」と申されし事、今以てその通りなり。毎年節分の夜は、門徒寺に、定まつて平太郎殿の事讃談せらるゝなり。

聞たびに替はらぬ事ながら、殊勝なる義なれば、老若男女ともに参詣多し。一とせ、大晦日おほつごもりに節分ありて、掛乞かけごひ、厄はらひ、天秤のひゞき、大豆うつ音、まことにくらがりに鬼つなぐとは今mojikyo_font_065887なるべし、おそろし。

さて道場には太鼓おとづれて、仏前にあかしあげて、参りの同行を見合せけるに、初夜の鐘をつくまでに、やうやう参詣三人ならではなかりし。

亭坊つとめ過ぎて、しばらく世間の事どもをかんがへ、「されば今晩一年中のさだめなるゆへ、それぞれにいとまなく、参りの衆もないと見ゑました。

然れども子孫に世を渡し、ひまあきたるお祖母ばゝたちは、けふとても何の用あるまじ。

仏のおむかひ船が来たらば、それにのるまいといふ事はいはれまじ。おろかなる人ごゝろ、ふびんやな、あさましやな。さりながら、ただ三人にきかせまして、さんだんするも益なし。

いかに仏の事にても、ここが胸筭用で御座る。中々灯明の油銭あぶらぜにも御座らねば、せつかく口をたゝいても世のついへなり。

面々に散銭取返して、下向して給はれ。皆世わたりの事共にからまされ、参詣もなき所に、おのおのきどく千万、ここを以て信心、女来によらいもいそがしき中に足をはこび給ふを、そんにはせさせ給はぬなり。

こがねの大帳に付けおかせられて、未来にて急度きつと筭用し給ふなれば、かならずかならず捨てたるとおぼしめすな。

仏は慈悲第一、すこしもいつはりは御座らぬ、たのもしうおぼしめせ」。