浮世風呂
―式亭三馬の滑稽本―
滑稽本。四編九冊。式亭三馬作。文化六年(1809)~十年(1813)刊。
江戸庶民の社交場であった銭湯を舞台に、そこに登場する男女の動作・会話を克明に描写し、世相や庶民生活の実態を浮き彫りにした作品。
『浮世床』とともに三馬の代表作。
前編 巻之上 浮世風呂大意
熟監るに、銭湯ほど捷径の教諭なるはなし。其故如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴んとて裸形になるは、天地自然の道理、釈迦も孔子も於三も権助も、産れたまゝの容にて、惜い欲いも西の海、さらりと無欲の形なり。
欲垢と梵悩と洗清めて浄湯を浴れば、旦那さまも折助も、孰が孰やら一般裸体。
是乃ち生れた時の産湯から死だ時の葬潅にて、暮に紅顔の酔客も、朝湯に醒的となるが如く、生死一重が嗚呼まゝならぬ哉。
されば仏嫌の老人も風呂へ入れば吾しらず念仏をまうし、色好の壮夫も裸になれば前をおさへて己から恥を知り、猛き武士の頸から湯をかけられても、人込じやと堪忍をまもり、目に見えぬ鬼神を隻腕に雕たる侠客も、御免なさいと石榴口に屈むは銭湯の徳ならずや。
心ある人に私あれども、心なき湯に私なし。譬へば、人密に湯の中にて撒屁をすれば、湯はぶくぶくと鳴て、忽ち泡を浮み出す。
嘗聞、薮の中の矢二郎はしらず、湯の中の人として、湯のおもはくをも恥ざらめや。
惣て銭湯に五常の道あり。湯を以て身を温め、垢を落し、病を治し、草臥を休むるたぐひ則仁なり。
前編 巻之上 朝湯の光景
四十余の男、六ツばかりの男の子の手をひき、猿まはしのやうにせなかへ負しは、三ツばかりの女の子。竹でこしらえたる持あそびの手桶と、やきものゝかめの子をもたせて、なまのろいくちびやうし
よいよいよいよ、アそりやそりや来たぞ。おぶうはどこだ。兄さんヤ、ころびなさんなよ。能く下を見ておあるきよ。アよいよいよいよ。
アおぶうはこゝだ。そりやそりやばゝつちいだばゝつちいだ。飛だりとんだり。ヲヽきたなやきたなや。コレ、兄さんはの、わわんのばゝつちいを踏うとしたよ。坊はおとつさんにおんぶだから能の
せなかのいもと「坊おんぶ「ヲヽ、ヲヽ、坊はちやんにおんぶ、兄さんはあんよ。サア下しな。コリヤコリヤ待たり待たり。
ころぶよころぶよ。サア兄さんひとりで衣を脱な。坊の衣はちやんが脱せる。ソリヤ、手を抜たり
兄「おいらはモウ衣を脱だよ。跡の跡の千次郎、おめへはおそい、おめへはおそいと トちいさい子のあごの下をこそぐる「コリヤコリヤじやうけるなじやうけるな
そばの人「ヲヤ、兄さんのには、似指があるが、鶴はんのはねへの「アイ、鶴は落しました。へヽヽヽヽヽ。福助さん、扠此日和は能く続く事でござりますね
福助「さやうさ、是ぢやア豊年でござります
金「さやうさ、サア、這入ませう。コレコレ兄さん、すべりなさんな。鶴さんはお持遊を落すまいぞ。アよいとこさ。福助さん、モウ是ぢやア納らねへ。子が出来ちやアみじめだゼ
源「能おたのしみだア
金「能苦さ。いくぢやアねへ。ソリヤ、あたまあたま。ハイ、子供でございござい
トざくろ口へ入り、二人の子をしめしながら 兄さんは手のとゞく所をしめしな。ソリヤ、だぶだぶだぶだぶ。アヽ、能いぞ能いぞ。温で能ぞ
徳蔵「是は金兵衛さん、子供衆には、チトしつぱり物でござりませう
金「ハイ、徳蔵さん、きのふは何所へお出なすつた。大分御機嫌だつけネ
徳「ハイ、王子へ行ました
金「ハヽア、海老屋か扇屋かネ
徳「夫ばかりですめば能のに、田圃通を抜ました
金「例の今口巴屋かネ。ハヽヽヽヽ。どうも打留はさう来るて。ハヽヽヽヽヽ
徳「チトうめて上やう。子供といふ者は熱い湯で懲させると湯嫌ひになるものさ
トントントントント、はめをたゝく トン ト返詞 湯をかきまはす時は、逆櫓の浄瑠璃を語る人が能い。
サアサア皆さまはねます。ヤツシツシ、ヤシツシ トかきまはす
金「ハイハイ是はありがたうござります。サア這入ましよ。兄さん、早く這入な
兄「おとつさ゜ん、まだ熱いものを
金「ナニあつい事があるものか。おぢさんが折角うめてお呉だは。鶴は強いから、コリヤ、コリヤ、這入ました「鉄炮の方までぬるくなった。モウよし。トントン
金「鶴は強いぞ強いぞ
兄「おとつさ゜ん、おいらも強いよ。コレ見な。這入たよ
金「ヲヽつよいつよい。手桶でだぶだぶを汲で、ソレざア引、面白ぞ面白ぞ。ヲヤ、ヲヤ、亀の子がおよぐよ。ヲヤ、そりや、ぶくぶくぶくぶく。アヽ能ぞ能ぞ。兄さん、能沈で温んな
兄「アイ、よく沈むと金魚や緋鯉が出るのう
金「ヲヽ、出るとも出るとも。啼くと水虎が出ます。ヲヽ、こわい事。いやいや、水虎出るな、鶴は利根者だから啼ませぬ。のう、なかねへのう
兄「おいらも弱虫じやアねへよ
金「ヲヽ、ヲヽ、兄さんも強い。ソリヤ、耳の脇にばゝツちいの溜らぬやうに、アよいと、目ねぶつてな。ソコデ鼻の下のお掃除をして虫の食付ねへやうに、ヤレ、能子になつたぞ。
アレ、他所のおぢさんがお誉だよ。ソリヤ、お舌をべろり。ヤレ、能子になつたぞ。ホイホイお咳が出る。ヲ、ヲ、悪いおとつさ゜んだの。あんまりお舌を洗つたから、腹の方は灸があるからよしませう。灸ウ誰すえた
妹「おつかア
金「ホヽツ、おつかアか。にくい母めだの。うなうなをしてやらう。可愛坊に灸ウすえて
妹「おつかア、うのウ
金「ヲヽヲヽ、母アうなうなしてやらうぞ
兄「おとつさ゜ん、モウ出よう
金「まだまだ、モツト温て
兄「それでもせつねへものを
金「ナニ、おとなしくねへ。鶴は是ほどおとなしいものを。サアサア、兄さんも鶴も哥をうたひな
兄「おウ月さまいイくウつウ十三なゝつ
金「そりや
兄「まだ年わアけへなあ
金「あの子をうんで
兄「この子をうんで
金「サアサア、鶴もうたひな
妹「おまんだかちよ
金「ヲヽヲヽ、おまんにだかしよ。夫から「サア夫から
妹「太鼓あつて
金「ナニナニまだサ。お万どうけつた
兄「油買に茶ア買に
金「アリヤ、兄さん上手だよ
兄「油屋の椽で
妹「氷張て
金「ヲヽ、氷が張つて
兄「すべつてこヲろんでヱ
金「あアぶら一升こウぼしたア
金「サア、鶴もいひな。その油どうちたト。サアいひな「次郎どんの犬と
兄「わアいわアい、おとつさん違つたア。太郎どんだものを
金「みんな嘗て
妹「ちイまつた金「おとつさんは忘れますのうハヽヽヽヽヽ
兄「其犬どうした
金「サアサア、そこだそこだ
妹「たいこ張て
兄「あつちら向ちやアドドドン
金「こつちらもドドドン
兄「さうじやアねへ。こつちら向ちやアどゝどん
金「ホイさうか。アどんどんどんよ。サア、あがりましよ。ハイ、出ますもの、子ども子ども。おつかアが待てゐるだらうぞ。お芋か、餅か、何でも能子になつた御褒美に待々して居るだらう。ヤレ、能子になつたぞ。アリヤアリヤ、初がお浴衣を持て、お迎ひに来たぞ
妹「はちゆべゞ
金「ヲヽヲヽ「サア、初や、あげるぞよ。ヤレ、能子になつたぞ