日本永代蔵
―井原西鶴の町人物浮世草子―
浮世草子。六巻六冊。井原西鶴作。元禄元年(1688)刊。
富を獲得する商人や破産する商人など、さまざまの町人群像を描く。話題は諸国にわたり、事実と虚構をおりまぜて金銭をめぐる人の心のありよう、町人の経済生活の裏面等を暢達な文体で活写している。西鶴の町人物の第一作。
巻一 初午は乗て来る仕合
天道言ずして、国土に恵みふかし。人は実あつて、偽りおほし。其心ンは本虚にして、物に応じて跡なし。
是、善悪の中に立て、すぐなる今の御ン代を、ゆたかにわたるは、人の人たるがゆへに、常の人にはあらず。
一生一大事、身を過るの業、士農工商の外、出家、神職にかぎらず。始末大明神の御詫宣にまかせ、金銀を溜べし。
是、二親の外に、命の親なり。人間、長くみれば、朝をしらず、短くおもへば、夕におどろく。
されば天地は万物の逆旅。光陰は百代の過客、浮世は夢といふ。時の間の煙、死すれば何ぞ、金銀、瓦石にはおとれり。
黄泉の用には立がたし。然りといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。ひそかに思ふに、世に有程の願ひ、何によらず、銀徳にて叶はざる事、天が下に五つ有。
それより外はなかりき。是にましたる宝船の有べきや。見ぬ嶋の鬼の持し隠れ笠、かくれ簔も、暴雨の役に立ねば、手遠きねがひを捨て、近道に、それぞれの家職をはげむべし。
福徳は、其身の堅固に有。朝夕、油断する事なかれ。殊更、世の仁義を本として、神仏をまつるべし。是、和国の風俗なり。
巻二 世界の借屋大将
借屋請状之事、室町、菱屋長佐衛門殿借屋に、居申され候藤市と申人、慥に千貫目御座候。広き世界にならびなき分限我なり、と自慢申せし。
子細は、二間口の棚借にて、千貫目持、都のさたになりしに。烏丸通に、三十八貫目の家質を取しが、利銀つもりて、おのづから流れ、始て家持となり、是を悔みぬ。
今迄は、借屋に居ての分限、といはれしに、向後、家有からは、京の歴々の内蔵の塵埃ぞかし。
巻四 祈る印の神の折敷
大絵馬、掛奉る御宝前、洛陽清水寺に、呉服所の何某、銀百貫目を祈り、其願成就して、是に名をしるして、懸られしと語りぬ。
今、其家の繁昌を見競。一代に金銀もたまる物ぞと、室町の是ざたなり。人皆、欲の世なれば、若恵比須、大黒殿、毘沙門、弁才天に頼みをかけ、鉦の緒に取付、元手をねがひしに。世けんかしこき時代になりて、此事かなひがたし。
爰に桔梗やとて、纔なる染物屋の夫婦、渡世を大事に、正直の頭をわらして、暫時も只居せず、かせげ共。毎年、餅搗おそく、肴掛に鰤もなくて、春を待事を悔みぬ。
宝船を敷寝にして、節分大豆をも、福は内にと、随分うつかひもなく。貧より分別かはりて、世はみな、富貴の神仏を祭る事、人のならはせなり。
巻六 第三 買置は世の心やすい時
毎年、元日に書置して、四十以後、死をわきまへ、正直に世わたりするに、自然と、分限になつて、泉州堺に、小刀屋とて、長崎商人有。
此津は長者のかくれ里、根のしれぬ大金持、其数をしらず、殊更、名物の諸道具、から物、唐織、先祖より五代このかた買置して、内蔵に、おさめ置人も有。
又、寛永年中より年々取込、金銀、今に一度も出さぬ人も有。又、内義十四の娌入して、敷銀五十貫目、其時の箱入、封のまゝかさね置、其娘、縁に付時、是をもたせて、おくりける人も有。
外よりは、こまかにして、内証手広き所ならひ、此歴々に立ならぶ分限にはあらねど。そもそもの買置は、三貫五百目なりしが、二十五年がうちに。ひとりの利発にして仕出し。年々、書置かさみて、既にかぎりの時、八百五拾貫目の有銀、一子にわたしける。