東海道中膝栗毛
―十返舎一九の滑稽本―
滑稽本。九編十八冊。十返舎一九作。享和二年(1802)から文化六年(1809)刊。
江戸の弥次郎兵衛と北八が東海道を旅して伊勢に参宮し、京を経て大坂に至るまでの道中を、狂歌を詠み散らし、滑稽な失敗の繰り返しで綴っている。『道中膝栗毛』とも。
道中膝栗毛発端
武蔵野の尾花がすゑにかゝる白雲と詠しは、むかしむかし浦の苫屋、鴫たつ沢の夕暮に愛て、仲の町の夕景色をしらざる時のことなりし。
今は井の内に鮎を汲む水道の水長にして、土蔵造の白壁建つゞき、香の物桶、明俵、破れ傘の置所まで、地主唯は通さぬ大江戸の繁昌、他国の目よりは、大道に金銀も蒔ちらしあるやうにおもはれ、何でもひと稼と心ざして出かけ来るもの、幾千万の数限りもなき其中に、生国は駿州府中、栃面屋弥治郎兵衛といふもの、親の代より相応の商人にして、百二百の小判には、何時でも困らぬほどの身代なりしが、安部川町の色酒にはまり、其上旅役者華水多羅四郎が抱の鼻之助といへるに打込、この道に孝行ものとて、黄金の釜を掘いだせし心地して悦び、戯気のありたけを尽し、はては身代にまで途方もなき穴を掘明て留度なく、尻の仕舞は若衆とふたり、尻に帆かけて府中の町を欠落するとて
借金は富士の山ほどあるゆへにそこで夜逃を駿河ものかな
初編
弥二「さつきの女が後に忍んでくるはづに、ふづくつておいたから、側で手めへが気わるくして、なをの事ふさぐだろふと、それがどふもきのどくだ
北「ヲヤほんにか、いつのまに約束した
弥二「そんなことに、じよさいのあるのじやアねへ。さつき手めへが湯へはいつている時、げんなまでさきへおつとめを渡しておいたから、もふ手つけの口印までやらかしておいた。なんときついもんか、へヽヽヽヽヽ。そふいつても色男はうるせへの。ハヽヽヽヽ、もふねよふか ト手水にたつて行。此内女きたりとこをとる
北「コレあねさん。おめへおらが連の男に、なにか約束をしたじやアねへか
女「イヽヱヲホヽヽヽヽ
北「イヤわらひごとじやアねへ。コリヤアないしやうのことだが、あの男はおへねへ瘡かきだから、うつらぬよふにしなせへ。おめへがしよつては、きのどくだから言つてきかすが、かならずさたなしだよ
ひそひそものでまことらしくいへば、女きもをつぶせしよふすに、北八づにのり そして足は年中雁瘡で、なんのことはねへ、乞食坊主の菅笠を見るよふに、所々に油紙のふたがしてある。
それに又アノ男の胡臭のくさゝ、そのくせひつこい男で、かぢりついたらはなしやアしねへ。めんよふアノかさつかきといふものは、口中のわるくさいもので、おいらもならんで飯をくうさへ、いやでならねへがしかたがねへ。おもいだしてもむしづがはしる。ペツペツ ト此内はや弥二郎てうずより出てくるよふすに
女「もふおやすみなさいませ トそうそうたつて行。弥二郎ざしきへはいり、すぐによぎをかぶつて
弥二「ドレふところを、あつためておいてやろう
北「いめへましい。こんやのよふにうまらねへことはねへ。やけどをして弐朱かねはふんだくられる。そのうへ、アノうつくしいやつを、そばで抱てねられて、ほんにふんだりけたりな目にあふハ
弥「へヽヽヽ、かんにさつし。こんやアちつとうけにくからう。ちくるいめ、こたへられぬ、ハヽヽヽヽヽ。コレ北八、もふ手めへねるか。もつとおきてゐねへ 北八はいさいかまわず
北「ゴウゴウゴウ
弥二「もふきそふなもんだ
トひとりまじくじして、まてどもまてどもおともなし。なま中さきぜにをやつて、ぼうにふるかと気がきではなく、こらへかねてむしやうに、手をたゝきたてると、やどやのかみさまきたり
女房「およびなさいましたか
弥二「イヤおめへではわかるめへ。さつきこゝの女中に、ちつと頼んでおいたことがあるから、どふぞちよつとよこしてくんねへ
女房「ハイあなた方のほうへ出ました女は、雇人でございますから、もふ宿へ帰ました。
弥二「ヱヽほんにか。そんならよしそんならよし
女房「ハイお休なさいませ トかつてへゆく
北「ハヽヽヽヽヽヽワハヽヽヽヽヽヽ
弥二「べらぼうめ何がおかしい
北「ハヽヽヽハヽヽヽ、イヤこれで地にした。もふ安堵してねよふか
弥二「かつ手にしやアがれ。
ト哀なるかな弥次郎兵へ、北八が姦計とは露しらず、弐百恋しやうらめしのおじやれか無晒落かあたら夜を、是非なくころりとつつぷしければ、北八おかしく又一首
ごま塩のそのからき目を見よとてやおこわにかけし女うらめし