堤中納言物語
―我が国最古の短編物語集―
わが国最初の短編物語集。十巻十冊。
「逢坂越えぬ権中納言」のみは、天喜三年(1055)、小式部の作。「よしなしごと」は鎌倉時代の作。他の作品はすべて平安後期に成立。作者は未詳。
「花桜折る少将(中将)」「このついで」「虫めづる姫君」「ほどほどの懸想」「逢坂越えぬ権中納言」「具合」「思はぬ方にとまりする少将」「はなだの女御」「はいずみ」「よしなしごと」の10編と、断章1編(「冬ごもる」)を収める。
まゆもそらず、歯も染めず、毛虫の収集を趣味とする姫君の姿を描いた「虫めづる姫君」、疎遠になった男の心をつなぎとめようと、おしろいと掃墨をまちがえて塗った女の話を描いた「はいずみ」などの作が収められている。それぞれが趣向を異にしながら人生の断面を鋭く描いている。
月にはかられて、夜ふかく起きにけるも、思ふらむところいとほしけれど、立ち帰らむも遠きほどなれば、やうやう行くに、小家などに例おとなふものも聞えず、くまなき月に、所々の花の木どもも、ひとへにまがひぬべく霞みたり。
いますこしすぎて、見つる所よりもおもしろく、過ぎがたき心地して、
そなたへと行きもやられず花桜にほふ木かげにたびだたれつつ
とうち誦じて、「はやく、ここにもの言ひし人あり」と、思ひ出でて立ちやすらふに、築地のくづれより、白きものの、いたくしはぶきつつ出づめり。(花桜折る中将)
春のものとてながめさせたまふ昼つ方、台盤所なる人々、
「宰相の中将こそ参りたまふなれ。例の御にほひいとしるく」
など言ふほどに、つい居ついゐたまひて、
「昨夜より殿にさぶらひしほどに、やがて御使ひになむ。『東の対の紅梅の下にうづませたまひし薫物、今日のつれづれに心みさせたまへ』とてなむ」
とて、えならぬ枝に、白銀の壺二つつけたまへり。(このついで)
蝶めづる姫君の住みたまふかたはらに、按察使の大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづきたまふことかぎりなし。
この姫君ののたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人はまことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」
とて、よろづの虫の恐ろしげなるを取り集めて、「これが成らむさまを見む」とて、さまざまなる籠箱どもに入れさせたまふ。
中にも、「かは虫の、心ふかきさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れは耳はさみをして、手のうらにそへふせて、まぼりたまふ。(虫めづる姫君)
祭のころは、なべて今めかしう見ゆるにやあらむ、あやしき小家の半蔀も、葵などかざして心地よげなり。
童べの、衵、袴清げにて、さまざまの物忌どもつけ、化粧して、我もおとらじといどみたる気色どもにて行き違ふは、をかしく見ゆるを、ましてそのきはの小舍人、随身などは、ことに思ひとがむるもことわりなり。(ほどほどの懸想)
五月待ちつけたる花橘の香も、昔の人恋しう、秋の夕べにもおとらぬ風にうちにほひたるは、をかしうもあはれにも思ひ知らるるを、山ほととぎすも里なれて語らふに、三日月のかげほのかなるは、折から忍びがたくて、例の宮わたりにおとなはまほしうおぼさるれど、「かひあらじ」とうちなげかれて、あるわたりの、なほ情あまりなるまでとおぼせど、そなたはもの憂きなるべし。(逢坂越えぬ権中納言)
長月の有明の月にさそはれて、蔵人の少将、指貫つきづきしく引きあげて、ただひとり小舎人童ばかり具して、やがて朝霧もよく立ち隠しつべく、ひまなげなるに、
「をかしからむところの、あきたらむもがな」
と言ひてあゆみ行くに、木立をかしき家に、琴の声ほのかに聞ゆるに、いみじううれしくなりてめぐる。(貝合)
昔物語などにぞかやうのことは聞ゆるを、いとありがたきまで、あはれに浅からぬ御契りのほど見えし御ことを、つくづくと思ひつづくれば、年のつもりけるほども、あはれに思ひ知られけむ。
大納言の姫君二人ものしたまひし、まことに物語に書きつけたるありさまにおとるまじく、何ごとにつけても生ひ出でたまひしに、故大納言も母上も、うちつづきかくれたまひにしかば、いと心細き古里にながめすごしたまひしかど、はかばかしく御乳母だつ人もなし。(思はぬ方にとまりする少将)
「そのころのこと」と、あまた見ゆる人まねのやうに、かたはらいたけれど、これは聞きしことなればなむ。
いやしからぬすき者の、いたらぬところなく、人に許されたる、「やむごとなき所にて、もの言ひ懸想せし人は、このごろ里にまかり出でてあなれば、まことかと行きてけしき見む」と思ひて、いみじく忍びて、ただ小舎人童一人して来にけり。(はなだの女御)
下わたりに、品いやしからぬ人の、こともかなはぬ人をにくからず思ひて、年ごろふるほどに、親しき人のもとへ行き通ひけるほどに、むすめを思ひかけて、みそかに通ひありきけり。
めづらしければにや、はじめの人よりは心ざしふかくおぼえて、人目もつつまず通ひければ、親聞きつけて、
「年ごろの人を持ちたまへれども、いかがはせむ」
とて、許して住ます。
もとの人聞きて、「今はかぎりなめり。通はせてなども、よもあらせじ」と思ひわたる。
「行くべき所もがな。つらくなりはてぬさきに、離れなむ」と思ふ。されど、さるべき所もなし。(はいずみ)
人のかしづくむすめを、故だつ僧、忍びて語らひけるほどに、年のはてに、山寺にこもるとて、
「旅の具に、筵、畳、盥、半揷貸せ」
と言ひたりければ、女、長筵、何やかや一つやりたりける。
それを、女の師にしける僧の聞きて、「われももの借りにやらむ」とて、書きてありける文のことばのをかしさに、書きうつしてはべるなり。
似つかず、あさましきことなり。(よしなしごと)
- 堤中納言物語(ウィキペディア)