とはずがたり
―愛欲体験と諸国遍歴を記した女流日記文学の傑作―
鎌倉後期の日記。五巻。後深草院二条(中院雅忠女)作。
正和二年(1313)以前の成立。
前三巻は後深草院御所を中心に、十四歳で院の寵愛を受けて以来、複数の男性とさまざまな愛欲遍歴とその感想を、後二巻は出家後、西行の跡を慕い、諸国行脚によって懴悔修行の生活を送る次第とその心境、後深草院三回忌の感慨などをしるす。
興味深い内容と雄大な構想とで中世日記文学の最高傑作。
「問はず語り」とも。
呉竹の一夜に春の立つ霞、今朝しも待ちいで顔に花を折り、にほひを争ひて並みゐたれば、我も人なみなみにさし出でたり。つぼみ紅梅にやあらん七に、くれなゐのうちぎぬ、萌黄の表着、赤色の唐衣などにてありしやらん。梅唐草を浮き織りたる二つ小袖に、唐垣に梅をぬひて侍りしをぞ着たりし。(巻一)
御殿ごもりてあるに、御腰打ち参らせて候ふに、筒井の御所のよべの御面影、ここもとにみえて、「ちともの仰せられん」と呼び給へども、いかが立ちあがるべき。動かでゐたるを、「御よるにてあるをりだに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と、忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心の外に立たれぬるに、「御とぎにはこなたにこそ」とて、障子のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそあさましけれ。(巻二)
この暮れには、有明の光も近きほどと聞けども、そのけにや、昼より心地も例ならねば、思ひ立たぬに、更け過ぎてのちおはしたるも、思ひ寄らずあさましけれど、心知るどち二三人よりほかは立ちまじる人もなくて、入れ奉りたるに、夜べの趣を申せば、
「とても身に添ふべきにはあらねども、ここさへいぶせからんこそ口惜しけれ。かからぬためしも世に多きものを」
とて、いと口惜しと思したれども、「御はからひの前はいかがはせん」
などいふほどに、明けゆく鐘とともに、をのこ子にてさへおはするを、何の人かたとも見えわかずかはゆげなるを、膝にすゑて、「昔の契り浅からでこそかかるらめ」など、涙もせきあへず、大人に物を言ふやうにくどき給ふほどに、夜もはしたなく明けゆけば、名残をのこして出で給ひぬ。(巻三)
尾張の国熱田の社に参りぬ。御垣を拝むより、故大納言の知る国にて、この社にはわが祈りのためとて、五月の御祭にはかならず神馬を奉る使を立てられしに、最後の病の折、神馬を参らせられしに、生絹の衣を一つ添へて参らせしに、萱津の宿といふところにて、にはかにこの馬死ににけり。驚きて在庁がなかより、馬はたづねて参らせたりけると聞きしも、神は受けぬ祈りなりけりとおぼえしことまで、かずかず思ひ出でられて、あはれさも悲しさも、遣る方なき心地して、この御社に今宵はとどまりぬ。(巻四)
深草のみかどは、御かくれののち、かこつべき御ことどもも、あと絶えはてたる心地して侍りしに、去年の三月八日、人丸の御影供をつとめたりしに、今年の同じ月日、御幸に参りあひたるも不思議に、見しむば玉の御面影もうつつに思ひ合せられて、さても宿願の行く末、いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうへ、修行の志も、西行が修行のしき、うらやましく覚えてこそ思ひ立ちしかば、その思ひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとを続けおき侍るこそ。のちの形見まではおぼえ侍らぬ。(巻五)
- とはずがたり(ウィキペディア)