沙石集
―鎌倉時代の仏教説話集―
鎌倉時代の仏教説話集。十巻。無住著。弘安六年(1283)成立。
説話を方便として読者を正しい仏教理解へ導こうとするもの。和歌説話、笑話、動物説話なども多く、内容は多彩をきわめる。
書名の由来については、「彼ノ金ヲ求ル者ハ、沙ヲ集テ是レヲ取リ、玉ヲ翫ブ類ハ、石ヲヒロイテ是レヲ磨ク。仍、沙石集ト名ク」と序に記されている。
地方の話も含み、鎌倉時代の地方の庶民生活の史料としても有用。「させきしゅう」とも読む。
下総国ニ、或者ノ妻、十二三ハカリナル継女ヲ、大ナル沼ノ畔ヘ具シテ行テ、此沼ノ主ニ申ス。コノ女ヲ参セテ、聟ニシマイラセント、度々云ヒケリ。
アル時、世間スサマジク風吹キ、空曇レル時、又例ノ様ニイヒケリ。此女殊ニ恐シク、身ノ毛イヨ立チ、沼ノ水浪タテ、風荒クシテ、見ヘケレバ、急ギ家ヘ帰ルニ、物ノ追心地シケレバ、イヨイヨ怖ナント云バカリナシ。
サテ、父ニトリ付キテ、カヽル事ナン有ツルト日比ノ事マデ語ルサル程ニ母モ内ヘ逃入ヌ。
其後、大ナル蛇来リテ、頸ヲアゲ、舌ヲ動シテ、此女ヲ見ル。父下臈ナレドモ、サカサカシキ物ニテ、蛇ニ向テ、此女ハ我女也。母ハ継母ナリ。我ガユルシナクテハ、争カ取ルベキカ。
母ガ詞ニ依ルベカラズ、妻ハ夫ニ随フ物ナレバ、母ヲバ心ニ任ス。トルベシト云フ時、蛇、女ヲバ、打捨テ、母ガ方ヘハイユキヌ。
其時父コノ女ヲ具シテ逃ヌ。此蛇、母ニマトヒ付キテ、物狂シク成テ、既ニ蛇ニ成リカヽリタルト聞ヱキ。
文永年中ノ夏比、此ノ事申出テ、来八月三日大雨大風吹テアレタラム時、可出ト申ト沙汰シキ。実ニ彼日ヲビタヽシクアレテ、雨風烈ク侍リキ。正シク出ケル事ハ聞ザリキ。
人ノ為ニ腹悪キハ、ヤカテ我身ニヲイ侍ルニコソ。因果疑フヘカラス。(巻第七 継女ヲ蛇ニ合セムトシタル事)
去シ文永年中、炎旱日久クシテ、国々飢饉ヲビタヽシク聞へシ中ニモ、美濃尾張殊ニ餓死セシカバ、多ク他国ヘゾ落行ケル。
美濃国ニ貧キ母子アリケリ。本ヨリタヨリナキ上、カヽル世ニ逢テ飢シヌベカリケレバ、忽ニ心憂キ事ヲ見モ口惜クテ、身ヲ売テ母ヲ助ケント思テ、母ニコノ様ヲ云ケレバ、只一人モチタル子ナリケル上、孝養ノ志モアリケレバ、放レン事カナシク覚テ、死ヌトモ同ジ所ニテ、手ヲモトラヘテ伏シ、頭ヲモ双ベテコソ死ナメ。
幾程アルマジキ世ニ、生ナガラ放ンモ口惜キ事ナリ」トテ、母フツト許ザリケレドモ、若命アラバ、自カラ巡アフ事モアリナン。
忽チニ飢死ナン事モ、サスガ悲シク覚ヘテ、母ハカク制シケレドモ身ヲ売テ、カハリヲ母ニ与テ、泣々別レテ吾妻ノ方ヘゾ下ケル。
三河国矢作ノ宿ニ相知リタル者ノ語リシハ、商人ノ、人アマタ供シテ下ケル中ニ、若キ男ノ人目モツヽマズ声ヲ立テテ、泣クアリケリ。
人アヤシミテ、何故ニ、サシモ泣ゾ、ト問ヒケレバ、美濃国ノ者ニテ侍ルガ、母ヲ扶ケンガ為ニ身ヲ売テ、イヅクニ留マルベシトモナク、吾妻ノ方へ下り侍ナリ。
母ノアマリニ別ルヽ事悲テ、悶へコガレ候ツル、日ヲカゾヘテコソ思ヒヲコスラメ。命アラバ巡リ逢フ事モアリナント、コシラヘ置ツレドモ、又再ビ母ノ姿ヲ見ズシテ、吾妻ノヲクノ、イカナル山ノ奥、野ノ末ニカ、サスラヒユキテ、夕ノ煙ト上リ、朝ノ露ト消ヘテ、又母ヲ見ズシテヤ止ナント、クドキタテゝ、泣キケレバ、見聞ク人モ、袖ヲシホラヌハナカリケリ。
至孝ノ志シマメヤカニ、昔ニ恥ズ、有ガタク覚テ、返々モ哀レニ侍リ。(巻第九 身ヲ売テ母ヲ養タル事)