醒睡笑
―江戸前期の一大笑話集―
咄本(笑話本)。八巻。浄土宗の説教僧・安楽庵策伝著。元和九年(1623)成立。
京都所司代板倉重宗の求めに応じて1039話の笑話を収めたもの。42項に分類。近世笑話文学の先駆で後の咄本、落語に多大の影響を与えた。書名は「こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡を醒まして笑ふ」ところから名付けられた。
咄の末尾に落ちをつける「落し噺」の型をもつものがほとんどであり、策伝自身がこれらを説教の高座で実演したため、策伝は後世「落語の祖」とたたえられた。
ころはいつ、元和九癸亥の稔、天下泰平、人民豊楽の折から、策伝某、小僧の時より耳にふれて、おもしろくをかしかりつる事を、反故の端にとめ置きたり。
是の年七十にて誓願寺乾のすみに隠居し安楽庵と云ふ、柴の扉の明暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡をさましてわらふ。
さるまゝにや是を醒睡笑と名付け、かたはらいたき草紙を八巻となして残すのみ。(序)
小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事をするぞと問ふ。
空の星がほしさに、打落さんとすれども落ちぬと。扨て扨て鈍なるやつや。それほど作が無うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(鈍副子)
京にて口わきしろき男、ちと出家をなぶり、りくつにつめて遊びたやと思ひつゝ、さかしき人に向ひ問ふ。やすき事なり、をしへむ。
なむぢ沙門にあうた時、お僧はいづくへといふべし、さだめて風にまかせてといはれんずる。その時、風なき時はいかんといへ、やがて閉口すべし。
此のをしへの後、ある朝東寺の門前にて出家に行きあふ。
お僧はいづくへといふ。僧の返事は、立賣の勘介が所へ齋に行く、なにぞ用ありや。
男とつてにはぐれ、あらお僧は風にはおまかせないのと。(鈍副子)
ある一人坊主、烏賊をくろあへにしてたまはる処へ、ふと人来れり。口をぬぐはん料簡もなかりつるに、そなたの口は何とて黒いぞや、かねをつけられたかと問ふ。いやあまり寒さに、只今燃えさしを一口くうたと。(自堕落)
質屋の娘嫁入し、夫婦の仲もよかりしが、仮初の事をも九々のことばをはなさず使ふ。たまさかなる客の前にても、とかく九々にて物をいふ。せんかたもなき耻かしさに、かの女をば去りてけり。
妻家を別れ行くにもなほ稚きよりいひ学びたれば、三四十二で嫁入し、四四十六で子をまうけ、四五二十にて去らるゝよと。(人はそだち)
ふるまひの菜に茗荷のさしみありしを、人ありて子児にむかひ、是れをば古へより今に至り、物よみおぼえん事をたしなむほどの人は、みな鈍根草と名付け、物忘れするとてくはぬよし申したれば、児聞いて、あこはそれなら食はふ、食うてひだるさ忘れうと。(児の噂)
或る僧新しき小刀の大きなるをもちて、鰹をけづり居ける所へ、知音の人おもひよらず来れり。あまりにとりみだし、小刀を鰹と思ひいそぎてかくし、鰹を小刀と思ひさし出し、此の比関の小刀をもとめた、御覧ぜよとぞ申しける。(廃忘)
我が秘蔵の紫小袖がみえぬ、しかとそちが盗みたるといへば、いやとらぬ。さりとては証拠人ありとつよくいふ時、とりはせぬ、人の見ぬにもらうたと。(廃忘)
- 醒睡笑(ウィキペディア)