御伽草子
―「浦島太郎」「一寸法師」などを含む短編物語集―
室町時代から江戸初期にかけて作られた素朴な短編小説の総称。
それまで小説類の読者ではなかった庶民を対象とするため、絵入りで平易な表現に徹し、宗教的・啓蒙的な内容の多いのが特徴。総数三百編以上。
代表的なものとしては、「浦島太郎」「一寸法師」「物くさ太郎」「文正草子」「鉢かづき」など。そのほとんどが成立年・作者ともに不明。
狭義には、享保(1716~36)のころ、大坂の本屋渋川清右衛門が「御伽文庫」の名で出版した以下の二十三編をさす。
- 文正草子 鉢かづき
- 小町草子 御曹司島渡
- 唐糸草子 木幡狐
- 七草草子 猿源氏草子
- 物くさ太郎 さざれ石
- 蛤の草子 小敦盛
- 二十四孝 梵天国
- のせ猿草子 猫の草子
- 浜出草子 和泉式部
- 一寸法師 さいき
- 浦島太郎 酒呑童子
- 横笛草子
以後、広くこれに類する室町時代頃に成立した短編小説類をもさす。
文正草子
それ昔より今にいたるまで、めでたきことを聞き伝ふるに、いやしきものゝ、殊のほかになりいでゝ、はじめより後までも、もの憂きことなくめでたきは、常陸国に、塩焼の文正と申す者にてぞはんべりける。
鉢かづき
中昔のことにや有けむ、河内国、交野の辺に備中守さねたかといふ人ましましける。
数の宝を持ち給ふ。飽き満ちて乏しきこともましまさず。詩歌管絃に心を寄せけるが、花のもとにては散りなむことを悲しみ、歌を詠み詩を作り、のどけき空を眺め暮らし給ひける。
北の御方は、古今、万葉、伊勢物語、数の草子を御覧じて、月の前にて夜を明し、入りなむことを悲しみ明し暮し給ひつつ、心に残ることもなし。
小町草子
そもそも清和のころ、内裏に、小町といふ、色好みの遊女あり。春は花に心をつくし、秋は月の前の雲をいとひ、朝に一さいの曙のけしきをながめて、ことばの種となれり。夕には、あはれをさそふ鐘の声、つくづくと、世の中を思ふにも、たゞ夢幻のこゝちして、草葉に置ける露ごろも、なをあだなるは命なりと、思ふにも、日本の歌の道ほど、もてあそぶべきものはなし。よろづの言の葉となりにけり。
御曹司島渡
さる程に御曹子、秀衡を召されて、都へ上るべきやうを問はせ給へば、秀衡承り、「日本国は神国にてましませば、もののふのてがらばかりにては成がたし。
是よりも北州に、一の国有り、千島とも、蝦夷が島とも申す。そのうちに喜見城の都有り、其王の名をば、かねひら大王と申しけり。
かの内裏にひとつの巻物有り、其名を大日の法と申してかたき事なり。されば、現世にては祈祷の法、後世にては仏道の法なり。
此兵法を行ひ給ふ物ならば、日本国は、君の御まゝになるべし、何とぞ御調法あつて御覧候へ」と申し奉れば、義経此よし聞しめし、とやせんかくやあらましと、しばし物をもの給はず。
やゝあつて、所詮たゞかの島へ渡らばやとおぼしめして、秀衡に暇乞ひ、旅の装束し給ひて、音に聞きしわが朝、四国土佐のみなとへ着き給ふ。
唐糸草子
寿永二年の秋の頃、鎌倉の兵衛佐頼朝は、八ケ国の侍たちを皆鎌倉へ召しのぼせ、中門に出でさせ給ひて、侍たちに向つて仰せけるは、
「いかに方々聞き給へ。そもそもそも平家は、頼朝が威勢に恐れてこそ、都をば落ちて候に、木曽の左馬頭義仲、十郎蔵人行家らが、高名顔に、関白にやならん、主上にや参らん、法皇にやならんと、天下をほしいまゝにふるまふことこそ、奇怪なれ。
平家対治のさきに、義仲を対治せん。佐竹の冠者もその由を申し、奥州の秀衡も、九郎冠者義経を、上せんと申すなり。
この十月のころなるべし。勢を残さでつれ給へ。支度せよ」とぞ仰せける。侍たちは承り、「かしこまる」と申して、皆国々へぞ下られける。
木幡狐
中ごろの事にや有けん、山城国、木幡の里に年をへて、久しき狐あり。稲荷の明神の、御使者たるによつて、何事も心にまかせずといふ事なし。
殊には男子女子、そのかず数多もち給ふ。どれどれも智慧才覚、芸能いふはかりなく、世にならびなく聞こえありて、とりどりにさいはひ給ふ。
中にも弟姫に、あたらせ給ふは、きしゆ御前とぞ申しける。いづれよりも殊にすぐれて、容顔美麗に美しく、心ざまならびなく侍りて、春は花のもとにて日を暮し、秋は隅なき月影に、心をすまし、詩歌、管絃にくらからず。
聞き伝へし人々は、心を懸けずといふことなし。御乳母思ひ思ひに縁をとり、我も我もと数の文をつかはし、心をつくすと申せども、行く水に数かく如し。
うち靡く気色もましまさず。姫君、「うき世に長らへば、いかならん殿上人か、関白殿下などの北の方ともいはれなん。なみなみならん住居は、思ひもよらず。
それさなき物ならば、電光朝露夢幻の世の中に、心をとめて何かせん。いかなる深山の奥にも引籠り、うき世を厭ひ、ひとへに後世を願ひ侍らばや」と思ひ、明し暮し給ふ程に、十六歳にぞなり給ふ。
父母御覧じて、多き子どもの中にも、此きしゆ御前は、世にすぐれ見え給ふ、いかなる御方さまをも婿にとり、心やすきさまをも見ばやと思ひて、さまざま教訓し給ふ。
七草草子
そもそも正月七日に、野に出でゝ、七草をつみて、みかどへ供御にそなふるといふなる由来を尋ぬるに、もろこし楚国の傍に、大しうといふ者あり。
かれは親に孝ある者なり。すでにはや、百歳に及ぶ父母あり。腰などもかゞみ、目などもかすみ、いふことも聞えず。
さるほどに老いければ、大しうこの朽ちはてたる御姿を、見参らするたびに、歎き悲しむこと限りなし。
猿源氏草子
中ごろの事にや有りけん、伊勢国阿漕が浦に、鰯売一人あり。もとは海老名の六郎左衛門とて、関東侍にてぞ有りける。
妻にをくれて、娘を一人もちたりしを、日頃召し使ひける猿源氏といふものに取らせて、すなはち鰯売の職をゆづり、わが身は都へ上り、元結切り、海老名の南阿弥陀仏とて、隠れなき遁世者にてぞ有りける。
大名、高家、近づけ給へり。さるほどに婿の猿源氏、鰯売、都へ上りて、洛中を、「伊勢国に阿漕が浦の猿源氏が、鰯かふゑい」といひて、商ひければ、人々これを聞きて、おもしろき鰯売哉とて、人々買いとる間、猿源氏程なく有徳の身となりにけり。
物くさ太郎
東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に、筑摩の郡あたらしの郷といふところに、不思議の男一人侍りける。
其名を、物くさ太郎ひぢかすと申し候。名を物くさ太郎と申す事は、国にならびなき程の物くさしなり。
たゞし名こそ物くさ太郎と申せども、家造りのありさま、人にすぐれてめでたくぞ侍りける。四面四町に築地をつき、三方に門を立、東西南北に池を堀り、島をつき、松杉を植ゑ、島より陸地へそり橋をかけ高欄に擬宝珠をみがき、まことに結構世にこえたり。
十二間の遠侍、九間の渡り廊下、釣殿、細殿、梅壺、桐壺、籬が壺にいたる迄、百種の花を植ゑ、主殿十二間につくり、檜皮葺に葺かせ、錦をもつて天井をはり、桁うつばり、たる木の組入れには、銀金を金物にうち、瓔珞の御簾をかけ、馬屋、侍所にいたる迄、ゆゝしく造り立て居ばやと、心には思へ共、いろいろ事足らねば、たゞ竹を四本立て、薦をかけてぞ居たりける。
雨の降るにも、日の照にも、ならはぬ住居して居たり。かやうにつくり悪しとは申せども、足手のあかがり、のみ、しらみ、肘の苔にいたるまで、足らはずといふ事なし。
もとでなければ商ひせず、物をつくらねば食物なし。四五日のうちにも起き上らず臥せり居たりけり。
さざれ石
神武天皇より十二代、成務天皇と申し奉るは、限りなくめでたき御世なり。此みかどに男みこ、姫宮三十八人の皇子おはしける。
卅八人めは、姫宮にてわたらせ給ふ。数も知らぬ程の皇子たちの御末なればとて、その御名をさゞれ石の宮とぞ申しける。
御かたち世にすぐれめでたくおはしければ、あまたの御中にもこえて、御寵愛なのめならず、いつきかしづき給ひける。
さるほどに御年十四にて摂政殿の北の政所に、移し参らせ給ふ。めでたき御おぼえ一天四海の内に上こす人こそなかりけり。
蛤の草子
天竺摩訶陀国のかたはらに、しゞらと申す人あり。世にすぐれて貧しき人にておはしけり。
父にははやく離れ、母親一人もち給ひけるが、其頃天竺ことのほか飢饉ゆきて、人疲れて死する事限りなし。
しゞら母を養ひかねて、よろづの営みをして母を過さんために、天に仰ぎ地にふして、営めども、さらに其かひなかりけり。
小敦盛
扨も敦盛の北の御方は、都西山の傍に深く忍び給ひけるが、敦盛の討たれさせ給ひぬるときこしめし、夢か現かこはいかなることぞと、ふし沈み泣き給ふ。
世の常のことならねば、叫べど声も出でざりけり。身に余り悲しくおぼしめし、衣引きかづき臥し給ふ。
いたはしや敦盛、「源氏謀叛をくはたて、自らはいかならん東男に見なれ給ひて、敦盛がことをば、忘れこそ候はんずらん」と、たはぶれ給ひけり。
又「御身はたゞならぬ身なり。男子にて有るならば、これをかたみに取らせよ」とて、金作りの太刀、「女子にて有るならば、十一面観音を取らせよ」とて、取出しとゞめ給ふ。
かやうにいろいろあり。又何につけてもあはれさを、これにたとへんかたもなし。
二十四孝
大舜
隊々耕春象 紛々耘草禽
嗣尭登宝位 孝感動天心
大舜は至つて孝行なる人なり。父の名は、瞽叟といへる。一段かたくなにして、母はかだましき人なり。
弟は大いにおごりて、いたづら人なり。しかれども大舜は、ひたすら孝行をいたせり。
ある時歴山と云ふ所に、耕作しけるに、かれが孝行を感じて、大象が来つて、田を耕し、又鳥飛び来つて田の草をくさぎり、耕作の助をなしたるなり。
扨其時天下の御主をば、尭王と名づけ奉る。
姫君まします。姉をば、娥皇と申し、妹は、女英と申し侍べり。
尭王すなはち舜の孝行なることをきこしめし及ばれ、御女を后にそなへ、終に天下を譲り給へり。これひとへに孝行の深き心より起れり。
梵天国
淳和天皇の御代に、五条の右大臣高藤とて、おはしけるが、容顔美麗に、才学いみじきのみならず、四方に四万の蔵をたて、乏しき事ましまさず。
年月を送り給へども、一人の孝子を持ち給はで、明暮歎き給ふ。
ある時つくづくと案じ、おぼしめしけるは、「われ前の世に、いかなる罪を作りてか、一人の子をもたず、七十八十の齢を保つとも、つひにはとゞまるべきあらず、なからん跡を誰かとふべき。
昔より今に至るまで、神仏に申すことかなへばこそ、万の人も申すらめ」とて、夫婦諸共に、清水に参り、五体を地に投げ、三千三百卅三度の礼拝を参らせて、「願はくは、一人の孝子を与へ給へ」と、種々の願を立て給ひける。
のせ猿草子
さるほどに、丹波の国、のせの山に年をへし猿あり。名をば猿尾の権頭と申しける。
その子にこけ丸殿とて、世にこえて智恵才覚、芸能すぐれける方あり。
此こけ丸殿、扇おつとり一さし舞ふて入り給ふを、いかなるものも、見るより心空になし、おもしろからずといふ事なし。
さる間こけ丸殿、やうやう二十ばかりにならせ給ふ。
父母いかなる方よりも御嫁御をと申させ給へども、耳にも聞き入れ給はず、われ思ふ子細有り、なみなみならんものを、いかでか妻に迎へん、いかなる公卿、殿上人の娘ならでは、久しからぬうき世に何かせんとおぼしめしける。
世の中の人たち、身の程知らぬ望と思ひ給はんやからもあるべし。こともおろかや、われらが先祖猿丸太夫は、みな知れる歌人なり。
猫の草子
天下太平国土安穏、かゝるめでたき御代にあふこと、人間は申すに及ばず、鳥類畜類に至るまで、ありがたき御政道なり。まことに堯舜の御代にもすぐれたることなり。
まづ慶長七年、八月中旬に、洛中に猫の綱を解きて放ち給ふべき御沙汰あり。ひとしく御奉行より、一条の辻に高札を御立てあり、その面にいはく、
一つ、洛中猫の綱を解き、放ち飼ひにすべき事。
一つ、同じく猫、売買停止の事。
この旨相背くにおいては、かたく罪科に処せらるべきものなり。よつてくだんの如し。
浜出草子
そも鎌倉と申すは、昔は一足踏めば、三町ゆるぐだいぶの沼にて候ひしを、和田、畠山、惣奉行を給はり、石切、鶴の嘴をもつて、高き所を切り平らげ、だいぶの沼を埋め給ふ。
上八かい、中八かい、下八かいとて三つにわる。上八かいは山、中八かいは在家、下八かいは海なりけり。
上八かいの、一段高き所には、源氏の氏神、正八幡大菩薩をあがめいはひ奉る。中八かいの在家を、鎌倉谷七郷にぞわられける。
和泉式部
中ごろ花の都にて、一条の院の御時、和泉式部と申して、やさしき遊女有り。内裏に橘保昌とて男有り。
保昌は十九、和泉式部は十三と申すより、不思議の契をこめ、情深くして、十四と申す春のころ、若一人まうけ給ひ、あひの枕の睦言に、はづかしとや思ひけん、五条の橋に捨てにけり。
産衣、あやめの小袖のつまに、一首の歌を書き、鞘なき守刀を添へて拾てけるを、町人拾ひ養育して、比叡の山へのぼせけり。
一寸法師
中頃のことなるに、津の国難波の里に、老翁と、姥と侍り。姥四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に参り、なき子を祈り申すに、大明神あはれとおぼしめして、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、老翁、喜び限りなし。やがて十月と申すに、いつくしき男子をまうけけり。
さりながら、生まれ落ちてより後、背一寸ありぬれば、やがてその名を一寸法師とぞ名づけられたり。
さいき
豊前国、うだの佐伯と申す人、一族に所領をとられ、京都へ上り沙汰するといへども、さらに道ゆかずして、年月を送れどもかひなし。
かくてはかなはじと思ひ、清水に参りて、一七日こもりて、御夢想に任せとにもかくにもならんと思ひ立ち、たけまつと申す童を一人具して参り、祈念を深く申せども、さしたる御夢想もなかりけり。
浦島太郎
昔丹後国に、浦島といふもの侍りしに、その子に浦島太郎と申して、年の齢二十四五の男有りけり。
明け暮れ海のうろくづをとりて、父母を養ひけるが、ある日のつれづれに、釣をせんとて出でにけり。
浦々島々、入江々々、到らぬ所もなく、釣をし、貝を拾ひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑしまが磯といふ所にて、亀をひとつ釣り上げける。
浦島太郎此亀にいふやう、「汝、生有るものゝ中にも、鶴は千年、亀は万とて、命久しきものなり。
忽ちこゝにて命をたゝん事、いたはしければ、助くるなり。常には此恩を思ひ出すべし」とて、此亀をもとの海にかへしける。
酒呑童子
むかしわが朝のことなるに、天地開けしこの方は、神国といひながら、又は仏法盛んにて、人皇のはじめより、延喜の帝に至るまで、王法ともにそなはり政すなほにして、民をもあはれみ給ふこと、尭舜の御代とてもこれにはいかでまさるべき。
しかれども世の中に不思議の事の出で来たり。丹波国大江山には鬼神のすみて日暮るれば、近国他国の者迄も、数をも知らずとりて行く。
都の内にてとる人は、みめよき女房の十七八を頭として、是をもあまたとりて行く。
いづれもあはれは劣らねども、こゝにあはれをとゞめしは、院に宮づき奉る、池田中納言くにたかとて御おぼえめでたくし、宝は内に満ち満ちて、富貴の家にてましますが、ひとり姫をもち給ふ。
三十二相のかたちをうけ、美人の姫君を見聞く人、心をかけぬ者はなし。
横笛草子
中頃のことにや、建礼門院の御時、刈藻、横笛とて、二人の女房侍りけり。
刈藻をば、平家の時、越前の前司盛嗣と最愛して、下り給へり。
今一人の横笛が、行方を尋ぬるに、まことに哀れなる事どもなり。
そのかたち、容顔美麗にしていつくしく、霞に匂ふ春の花、風に乱るゝ青柳の、いとたをやかに、秋の月にことならず。
- 御伽草子(ウィキペディア)