南洲翁遺訓
―西郷隆盛の教訓集―
西郷隆盛(1827~77)の教訓集。
明治23年(1890)、元庄内藩主酒井忠篤により刊行。
戌辰戦争で官軍に敗れた庄内藩に対し西郷が寛大な処置をしたため、庄内藩士たちは非常に感激した。本書は、藩士たちが鹿児島まで行って直接西郷から教えを受け、それをまとめたもの。
本文四十一条、追加二条からなる。本書から西郷の高邁な精神を看取できる。
何程国家に勲労有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。(第一条)
万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。(第四条)
或る時「幾歴辛酸志始堅。丈夫玉砕愧甎全。一家遺事人知否。不為児孫買美田(幾たびか辛酸を歴て、志始めて堅し。丈夫は玉砕するも甎全を愧ず。一家の遺事人知るや否や。児孫のために美田を買わず)」との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したりとて見限られよと申されける。(第五条)
事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用ふ可からず。(第七条)
広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我国の本体を居ゑ風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ。(第八条)
忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥り易ふ可からざるの要道也。(第九条)
租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也。(第十三条)
自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。(第十九条)
何程制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行はれ難し。(第二十条)
功立ち名顕るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其成し得たる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとてまづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。(第二十一条)
予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふ共、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。(第二十九条)
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。(第三十条)
司馬温公は閨中にて語りし言も、人に対して言ふべからざる事無しと申されたり。独を慎むの学推して知る可し。(第三十二条)
聖賢の書を空しく読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。(第三十六条)
誠篤ければ、縦令当時知る人無く共、後世必ず知己有るもの也。(第三十七条)
世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕當てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。(第三十八条)
今の人、才識有れば事業は心次第に成さるるものと思へ共、才に任せて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。体有りてこそ用は行はるるなり。(第三十九条)
苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。(追加二)