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代表的だいひょうてき日本人にほんじん
―内村鑑三が西欧社会に紹介した偉人伝―

内村鑑三(1861~1930)著。明治41年(1908)4月警醒社書店より刊行。英文著書。

代表的日本人として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮という五人の偉人をとりあげ、その生涯を紹介した。

なお、日蓮をとりあげている点は、内村の人生にとって日蓮との共通点が多く、日本人キリスト者として生きる決意の表れでもあるといえよう。

本書は岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』とともに、日本人が英文で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である。


西郷隆盛
ある人は、西郷の私生活につき、このように証言してします。
「私は一三年間いっしょに暮らしましたが、一度も下男を叱る姿を見かけたことがありません。ふとんの上げ下ろし、戸の開けて、その他身の回りのことはたいてい、自分でしました。でも他人が西郷のためにしようとするのを、遮ることはありませんでした。また手伝おうとする申し出を断ることもありませんでした。まるで子供みたいに無頓着で無邪気でした」

西郷は人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、だれかが偶然出て来て、自分を見つけてくれるまで待っているのでした!


上杉鷹山
 藩主の地位に就いてから二年後、鷹山は、はじめて自領の米沢に足を踏み入れました。それは晩秋のことで、ただでさえ悲哀のたちこめる状態であるところへ、「自然」が、さらにもの悲しさを添えていました。

行列が、荒れ果てた、だれ顧みるものもないさびれた村を、一つまた一つ通るたびに、目の前に展開する光景を見て、多感な年若き藩主の心は深い衝撃を受けました。乗り物のなかで、鷹山が、自分の前にある火鉢の炭を一生懸命に吹いている姿を、供の家来が見かけたのは、そのときでありました。家来の一人が、
 「よい火をお持ちしましょう」と申しました。

 「今はよい。すばらしい教訓を学んでいるところだ。それは後で言おう」
鷹山は答えました。その晩、行列が泊まった宿で、藩主は供の家来を集めて、その午後に学んだ新しい、貴重な教訓を説明しました。

 「この目で、わが民の悲惨を目撃して絶望におそわれていたとき、目の前の小さな炭火が、今にも消えようとしているのに気づいた。大事にしてそれを取り上げ、そっと辛抱強く息を吹きかけると、実に嬉しいことには、よみがえらすことに成功した。“同じ方法で、わが治める土地と民とをよみがえらせるのは不可能だろうか”そう思うと希望が湧き上がってきたのである」


二宮尊徳
「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない」

「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地も動かしうる」

「なすべきことは、結果を問わずなされなくてはならない」

これらのことを述べたり、またこれに類する多くの教訓によって、尊徳は、自分のもとに指導と救済とを求めて訪れる多数の苦しむ人々を助けました。こうして尊徳は、「自然」と人との間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。

私どもの同類であり同じ血を共有する、この人物の福音とくらべると、近年、わが国に氾濫している西洋の知とは、いったい何でありますか!


中江藤樹
藤樹の教えのなかで、とくに変わった教えが一つあります。藤樹は、弟子の徳と人格とを非常に重んじ、学問と知識とをいちじるしく軽んじました。真の学者とはどういう人か、藤樹の考えはこうです。

“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。


日蓮
日蓮の私的な生活は、このうえなく簡素でありました。鎌倉の草庵に居を定めて以来、三〇年後の身延でも同じような建物に住んでいました。裕福な信徒の弟子もでき、望めば思いのままに安楽な生活を送ることのできたときです。

「仏敵」と呼んだ者には苛烈でありましたが、貧しい人たち、しいたげられた人たちに対しては、まことにやさしい人物でありました。弟子にあてた手紙には、あの記念すべき『立正安国論』の炎のような烈しさとはうって変わり、実にやさしい気持ちがこめられています。弟子たちが日蓮を尊敬したのも当然であります。