平家物語
―「祇園精舎の鐘の声…」で始まる軍記物語―
軍記物語。十二巻(流布本)。
『徒然草』には作者として信濃前司行長の名があるが、成立年とともに未詳。十三世紀前半に原型が成立。
十二世紀末の治承・寿永期の動乱を、平清盛を中心とする平家一門の興亡を軸としてとらえ、仏教的無常観を基調に、叙事詩的に描く。
文章は七五調を交えた流麗な和漢混交文。中世軍記物語の代表的作品で、語りものとして琵琶法師によって語られ、後代の文学に大きな影響を与えた。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。(巻第一)
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へぞ駆け給ふ。頃は正月二十日、入相ばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬をさつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。
かかりしかでも、今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふき給ふ所を、相模国の住人三浦の石田次郎為久、追つかゝり、よつ引ゐてひやうと放つ。
木曾殿、内甲を射させ、痛手なれば、甲の真つ向を馬の頭に押し当てて俯し給ふ所を、石田が郎等二人落ち合ひて、既に御首をば賜りけり。
やがて首をば太刀の鋒に貫き、高くさし上げ、大音声を揚げて、「この日ごろ日本国に鬼神と聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田次郎為久が討ち奉たるぞや」と名のりければ、今井四郎は軍しけるが、これを聞いて、「今は誰をかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の、自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。(巻第九)
与一、目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて給ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二たび面を向かふべからず。今一度、本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の中に祈念して、目を見開ひたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなりたりける。
与一鏑を取つてつがひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の要際一寸ばかりをいて、ひいふつとぞ射切つたる。
鏑は海へ入ければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
みな紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には、平家舷を叩いて感じたり、陸には、源氏箙を叩いてどよめきけり。(巻第十一)
- 平家物語(ウィキペディア)