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保元物語ほうげんものがたり
―源為朝の活躍を描いた軍記物語―

保元の乱(1156)を題材にした軍記物語。三巻(二巻本もあり)。
鎌倉初・中期ごろの成立。作者未詳。

鎮西八郎為朝ためとも(源為朝)の活躍を中心に描かれており、為朝の英雄譚の如き趣きを呈している。
文体は和漢混淆文。『平家物語』の前段階的作品として位置づけられる。

 爲朝は七尺ばかりなる男の、目角めかど二つきれたるが、かちに色々の糸をもて、獅子の丸を縫うたる直垂ひたヽれに、八龍はちりようといふ鎧を似せて、しろき唐綾からあやをもてをどしたる大荒目おほあらめの鎧、おなじく獅子の金物かなものうつたるをきるまゝに、三尺五寸の太刀に、熊の皮のしりざやいれ、五人ばりの弓、長さ八尺五寸にてつくうちたるに、卅六さしたる黑羽くろはの矢おひかぶとをば郎等にもたせてあゆみいでたるてい樊噲はんくわいもかくやとおぼえてゆゝしかりき。

はかりごとは張良にもおとらず。されば堅陣けんじんをやぶる事、呉子ごし孫子そんしがかたしとする所を得、弓は養由やういうをもはぢざれば、天をかける鳥、地をはしるけだものの、おそれずといふ事なし。

上皇をはじめまゐらせて、あらゆる人々、音にきこゆる爲朝見んとてこぞり給ふ。(新院御所各門々もんもんがための事附たりいくさ評定ひやうぢやうの事)

 御曹司おんざうし須藤すどう九郎をめして、「敵は大勢也。もし矢種やだねつきて打物うちものにならば、一騎が百騎に向ふ共、つひにはかなふまじ。

坂東ばんどう武者むしやならひ、大將軍の前にては、親死に子うたるれどもかへりみず、いやが上に死重しにかさなつてたゝかふとぞきく。

いざさらば、大將に矢風やかぜをおほせて、引しりぞかせんと思ふはいかに」とのたまへば、家季「しかるべう候。たゞし御あやまちや候はん」とまうしければ、何條さる事あるべき。

爲朝が手本てもとはおぼゆるものを」とて、例の大矢を打くはせ、しばしかためてひやうと射る。

思ふ矢つぼをあやまたず、下野の守のかぶとの星を射けづりて、餘る矢が寶莊嚴院はうしようごんゐんの門の方立はうだてに、箆中のなかせめてぞたつたりける。

其時義朝手綱たづなかいくり打向ひ、「汝は聞及きゝおよぶにも似ず、無下むげに手こそあらけれ」との給へば、爲朝「兄にてわたらせ給ふ上、存ずる旨あつてかうはつかまつつたれ共、まことに御ゆるしをかうぶらば、二の矢を仕らん。

眞向まつかう内冑うちかぶとおそれも候。障子の板栴檀せんだん弦走歟つるばしりか胸板むないた眞中まんなかか。

草摺くさずりならば、一の板とも二の板共、矢つぼをたしかに承て二の矢を仕らん」とて、既に取てつがはれける所に、上野の國の住人深巢ふかすの七郎清國、つとかけよせければ、爲朝是を弓手ゆんで相請あひうけて、はたと射る。

清國がかぶとの三の板よりすぢかへに、左の小耳の根へ、箆中のなかはかり射こまれたれば、しばしもたまらずしににけり。須藤すどう九郎落合おちあひて、深巢ふかすが首をば取てけり。(白河殿攻落す事)