太平記
―南北朝の動乱を中心に描いた軍記物語―
軍記物語。四十巻。小島法師作と伝えるが不明。
暦応元年(1338)から観応元年(1350)までに原形本が成立し、以後増補され、文中二年(1373)ごろ現存の形となった。
五十余年に及ぶ南北朝の内乱を物語化したもの。合戦描写が多く、『平家物語』にくらべて叙情詩的要素を欠く。文章は華麗な美文調の和漢混交文。
近世には太平記読みとして講釈師により講釈されることになった。後代文学への影響も大きい。
巻第十六 正成兵庫に下向の事
正成、「此上はさのみ異儀を申すに及ばず」とて、五月十六日に都を立ちて五百余騎にて兵庫へぞ下りける。
正成是れを最期の合戦と思ひければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思ふ様ありとて、桜井の宿より河内へ返し遣すとて、庭訓を残しけるは、 「獅子子を産みて三日を経る時、数千丈の石壁より是れを擲ぐ。
其の子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳ね返りて、死する事を得ずといへり。
況んや汝已に十歳に余りぬ。一言耳に留らば、我が教誡に違ふ事なかれ。
今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見んこと是れを限りと思ふなり。正成已に討死すと聞きなば、天下は必ず将軍の代に成りぬと心得べし。
然りと云へども、一旦の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人に出づる事有るべからず。
一族若党の一人も死残りてあらん程は、金剛山の辺に引籠て、敵寄せ来らば、命を養由が矢さきに懸けて、義を紀信が忠に比すべし。
是れを汝が第一の孝行ならんずる」と、泣く泣く申し含めて各東西へ別れにけり。
巻第十六 正成兄弟討死の事
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向つて申しけるは、「敵前後を遮つて、御方は陣を隔てたり。
今は遁れぬ処と覚ゆるぞ。いざや、まづ前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん」と申しければ、正季、「然るべく覚え候」と同じて、七百余騎を前後に立てて、大勢の中へ懸入りける。
左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵なりと思ひければ、取籠て是れを討たんとしけれども、正成・正季、東より西へ破つて通り、北より南へ追ひ靡け、よき敵とみるをば馳せ雙べて、組んで落ちては首をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打つて懸け散らす。
正季と正成と、七度合ひて七度分る。其の心偏に左馬頭に近づき、組んで討たんと思ふにあり。
遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸け靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。
直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈み立て、右の足を引きける間、楠が勢に追ひ攻められて、已に討たれ給ひぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎、只一騎、蓮池の堤にて返し合はせて、馬より飛んでをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取り延べて、懸る敵の馬の平頸、むながひの引廻、切つては刎ね倒し刎ね倒し、七八騎が程、切つて落しける其の間に直義は馬を乗り替て、遥々落ち延び給ひけり。
左馬頭、楠に追ひ立られて、引退くを将軍見給ひて、「新手を入れ替へて、直義討たすな」と下知せられければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸け出でて、跡を切らんとぞ取り巻ける。
正成・正季又取つて返して此の勢にかゝり、懸けては打ち違へて死し、懸け入つては組んで落ち、三時が間に十六度まで闘ひけるに、其の勢次第次第に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成りにける。
此の勢にても打破つて落ちば、落つべかりけるを、楠京を出でしより、世の中の事、今は是れ迄と思ふ所存ありければ、一足も引かず戦つて、楠、已に疲れければ、湊河の北に当つて、在家の一村ありける中へ走り入つて、腹を切らん為に、鎧を脱ぎて我が身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負ひたりける。
此の外七十二人の者共も、皆五箇所三箇所の疵を被らぬ者はなかりけり。
楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に雙み居て、念仏十返ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切たりける。
正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向つて、「そもそも最期の一念に依りて、善悪の生を引くといへり。九界の間に、何か御辺の願なる」と問ければ、正季からからと打ち笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」と申ければ、正成世に嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれども、我れもかやうに思ふなり。いざゝらば同じく生を替へて、此の本懐を達せん。」と契つて、兄弟共に差し違へて、同じ枕に臥しにけり。
橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗徒の一族十六人、相随ふ兵五十余人、思ひ思ひに並み居て、一度に腹をぞ切つたりける。
菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行き合て、をめをめしく見捨てては、いかゞ帰るべきと思ひけるにや、同じく自害をして、炎の中に臥しにけり。
そもそも元弘以来、忝くも此の君に憑まれ進らせて、忠を致し功に誇る者、幾千万ぞや。
然れども此の乱又出で来て後、仁を知らぬ者は、朝恩を捨てて敵に属し、勇なき者は、苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は、時の変を弁ぜずして、道に違ふ事のみ有りしに、智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未なかりつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失ひて、逆臣横に威を振ふべき、其の前表のしるしなれ。
- 太平記(ウィキペディア)