学問のすすめ
―福沢諭吉が著した明治初期の大ベストセラー―
明治初期の啓蒙書。福沢諭吉(1835~1901)著。
初編は明治5年(1872)刊行されたが、非常な評判をとったのでシリーズ化し、明治9年(1876)刊の第17編まで続いた。発行部数あわせて340万といわれ、当時の大ベストセラーとなった。
初編冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言へり」はあまりにも有名。
また、六、七編において、赤穂義士や楠木正成の討ち死にを、主人の金をなくしたため首くくりをした下男(権助)の死と同等ではないかと批判したため、世に「楠公権助論」と称し、当時たいへんな批判を受けた。
ともあれ、本書は日本における近代的、合理主義的な人間観、社会観、学問観の出発を示す書である。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。 されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。(初編)
自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。(初編)
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛うものなり。(三編)
昔徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討とて吉良上野介を殺したることあり。世にこれを赤穂の義士と唱えり。大なる間違いならずや。このとき日本の政府は徳川なり、浅野内匠頭も吉良上野介も浅野家の家来も皆日本の国民にて、政府の法に従いその保護を蒙るべしと約束したるものなり。(六編)
かの忠臣義士が一万の敵を殺して討死するも、この権助が一両の金を失うて首を縊るも、その死をもって文明を益することなきに至っては正しく同様の訳にて、何れを軽しとし何れを重しとすべからざれば、義士も権助も共に命の棄て所を知らざる者と言って可なり。(七編)
妻妾家に群居して家内よく熟和するものは古今未だその例を聞かず。妾と雖ども人類の子なり。一時の欲のために人の子を禽獣の如くに使役し、一家の風俗を乱りて子孫の教育を害し、禍を天下に流して毒を後世に遺すもの、豈これを罪人と言わざるべけんや。(八編)
凡そ人間に不徳の箇条多しと雖ども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし。(十三編)
信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。試みに見よ、世間の愚民、人の言を信じ、人の書を信じ、小説を信じ、風聞を信じ、神仏を信じ、卜筮を信じ、父母の大病に按摩の説を信じて草根木皮を用い、娘の縁談に家相見の指図を信じて良夫を失い、熱病に医師を招かずして念仏を申すは阿弥陀如来を信ずるがためなり。(十五編)
顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭わるること無きを要す。肩を聳やかして諂い笑い、巧言令色、太鼓持の媚を献ずるが如くするは固より厭うべしと雖ども、苦虫を噛潰して熊の胆を啜りたるが如く、黙して誉められて笑って損をしたがるが如く、終歳胸痛を患うるが如く、生涯父母の喪に居るが如くなるもまた甚だ厭うべし。顔色容貌の活潑愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際において最も大切なるものなり。(十七編)