浮雲
―二葉亭四迷による言文一致体の小説―
二葉亭四迷(1862~1909)の長編小説。明治20年(1887)~22年(1889)に発表。
学問はできるが観念的で融通のきかない官吏の内海文三、その従妹で流行に弱いおちゃっぴいのお勢、学問よりも要領よく出世することを第一とする俗物の本田昇ら3人の青年男女の葛藤を描いている。
明治中期の功利主義的風潮や官僚制の中で挫折する青年の姿を、言文一致体で描き、日本最初の本格的写実小説とされる。
第一編 第三回
文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ嬉しい
「アラお世辞じゃアありませんよ真実ですよ
「真実ならなお嬉しいが しかし私にゃア貴嬢と親友の交際は到底出来ない
「オヤ何故ですエ 何故親友の交際が出来ませんエ
「何故といえば私には貴嬢が解からずまた貴嬢には私が解からないから どうも親友の交際は……
「そうですか それでも私には貴君はよく解ッているつもりですよ 貴君の学識があッて品行が方正で親に孝行で……
「だから貴嬢には私が解らないというのです 貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども孝行じゃアありません 私には……親より……大切な者があります……
ト吃ながら言ッて文三は差俯向いてしまう お勢は不思議そうに文三の容子を眺めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にもありますワ
文三はうな垂れた頸を振揚げて
「エ貴嬢にもありますと
「ハアありますワ
「誰……誰れが
「人じゃアないの、アノ真理
「真理
ト文三は慄然と胴震をして唇を喰いしめたまま暫らく無言 ややあッて俄に喟然として歎息して
「アア貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ 人を愚にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉だりして玩弄する 玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない アア自分ながら……
ト些し考えて ややありて熱気となり
「ダガ思い切れない……どうあッても思い切れない……お勢さん貴嬢は御自分が潔白だから是様な事を言ッてもお解りがないかも知れんが 私には真理よりか……真理よりか大切な者があります 去年の暮から全半歳 その者のために感情を支配せられて寐ても寤めても忘られはこそ 死ぬより辛いおもいをしていても先では毫しも汲んでくれない むしろ強顔なくされたならばまた思い切りようもあろうけれども……
ト些し声をかすませて
「なまじい力におもうの、親友だのといわれて見れば私は……どうも……どうあッても思い……
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ ちょっと御覧なさいヨ
第一編 第五回
「オヤ大変片付たこと
「余りヒッ散らかっていたから
ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ 何故虚言を言ッたか自分にも解りかねる お勢は座に着きながらさして吃驚した様子もなく
「アノ今母親さんがお噺しだッたが 文さん免職におなりなすったとネ
「昨日免職になりました
ト文三も今朝とはうって反ッて今は其処どころでないと言ッたような顔付
「実に面目はありませんが しかしいくら悔んでも出来た事は仕様がないと思ッて今朝母親さんに御風聴申したが……叱られました
トいって歯を囓切ッて差俯向く 「そうでしたとネー だけれども……
「二十三にもなッて 親一人楽に過す事の出来ない意久地なしと言わないばかりに仰しゃッた
「そうでしたとネー だけれども……
「なるほど私は意久地なしだ 意久地なしに違いないが しかしなんぼ叔母甥の間柄だと言ッて 面と向ッて意久地なしだと言われては 腹も立たないが余り……
「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ 今もネ母親さんが得意になってお話しだったから私が議論したのですヨ 議論したけれども母親さんには私の言事が解らないと見えてネ ただ腹ばッかり立てているのだから教育のない者は仕様がないのネート極り文句 文三は垂れていた頭をフッと振挙げて
「エ母親さんと議論をなすった
「ハア
「僕のために
「ハア君のために弁護したの
「アア
ト言ッて文三は差俯向いてしまう 何だか膝の上へボッタリ落ちた物がある 「どうかしたの文さん
トいわれて文三は漸く頭を擡げ莞爾笑い その僻眶を湿ませながら
「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り二十三にもなッてお袋一人さえ過しかねる 其様な不甲斐ない私をかばって母親さんと議論をなすったと 実に……
「条理を説ても解らないくせに腹ばかり立てているから仕様がないの
ト少し得意の躰
「アアそれほどまでに私を……思ッて下さるとは知らずして 貴嬢に向ッて匿立てをしたのが今更耻かしい アア耻かしい モウこうなれば打散けてお話してしまおう 実はこれから下宿をしようかと思ッていました
「下宿を
「サ しようかと思ッていたんだがしかし最う出来ない 他人同様の私をかばって実の母親さんと議論をなすったその貴嬢の御信切を聞ちゃ。しろと仰しゃッても最う出来ない……がそうすると母親さんにお詫を申さなければならないが……
「打遣ッておおきなさいヨ あんな教育のない者が何と言ッたッて好う御座んさアネ
「イヤそうでない それでは済まない 是非お詫を申そう がしかしお勢さん お志は嬉しいが最う母親さんと議論をすることは罷めて下さい 私のために貴嬢を不孝の子にしては済まないから
「お勢
ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする
「アラ母親さんが呼んでお出でなさる
「ナアニ用も何にもあるんじゃアないの
「お勢
「マア返事を為さいヨ
「お勢お勢
「ハアイ……チョッ五月蠅こと
ト起揚る
「今話した事は皆母親さんにはコレですよ
ト文三が手頭を振ッて見せる お勢はただ点頭たのみで言葉はなく二階を降りて奥坐舗へ参ッた
先程より疳癪の眥を釣り上げて手ぐすね引て待ッていた母親のお政は お勢の顔を見るより早く込み上げて来る小言を一時にさらけ出しての大怒鳴
「お……お……お勢 あれほど呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ 聾者じゃあるまいし人が呼んだら好加減に返事をするがいい……全躰マア何の用があッて二階へお出でだ。エ、何の用があッてだエ
ト逆上あがッて極め付けても此方は一向平気なもので
「何にも用はありヤアしないけれども……
「用がないのに何故お出でだ 先刻あれほど最うこれからは今までのようにヘタクタ二階へ往ッてはならないと言ッたのが お前にはまだ解らないかエ さかりの附た犬じゃアあるまいし間がな透がな文三の傍へばッかし往きたがるよ
「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて 其様な不条理な
「チョッ解らないネー 今までの文三と文三が違います お前にゃア免職になった事が解らないかエ
「オヤ免職になってどうしたの 文さんが人を見ると咬付きでもするようになったのへーそう
「な。な。な。なんだと 何とお言いだ……コレお勢それはお前あんまりと言うもんだ 余り親をば。ば。ば。馬鹿にすると言うもんだ
「ば。ば。ば。馬鹿にはしません へー私は条理のある所を主張するので御座いますト唇を反らしていうを聞くや否や お政は忽ち顔色を変えて手に持ッていた長羅宇の烟管を席へ放り付け
「エーくやしい
ト歯を喰切ッて口惜しがる その顔を横眼でジロリと見たばかりでお勢はすまアし切ッて座舗を立出でてしまッた
しかしながらこれを親子喧嘩と思うと女丈夫の本意に負く どうしてどうして親子喧嘩……其様な不道徳な者でない これはこれ辱なくも難有くも日本文明の一原素ともなるべき新主義と時代後れの旧主義と衝突をする所 よくお眼を止めて御覧あられましょう
その夜文三は断念ッて叔母に詫言をもうしたが ヤ梃ずったの梃ずらないのと言てそれはそれは……まずお政が今朝言ッた厭味に輪を懸け枝を添えて百曼駝羅並べ立てた上句 お勢の親を麁末にするのまでを文三の罪にして難題を言懸ける
されども文三が死だ気になって諸事お容るされてで持切ッているに お政もスコだれの拍子抜けという光景で厭味の音締をするようになッたからまず好しと思う間もなく
ふとまた文三の言葉尻から焼出して以前にも立優る火勢 黒烟焔々と顔に漲る所を見てはとても鎮火しそうもなかッたのも
文三が済ませぬの水を斟尽して澆ぎかけたので次第次第に下火になって プスプス薫になって遂に不精不精に鎮火る
文三は吻と一息 寸善尺魔の世の習い またもや御意の変らぬ内にと挨拶も匆々に起ッて坐敷を立出で二、三歩すると後の方でお政がさも聞えよがしの独語
「アアアア今度こそは厄介払いかと思ッたらまた背負込みか
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- 浮雲 (二葉亭四迷の小説)(ウィキペディア)
- 言文一致(ウィキペディア)
- 作家別作品リスト:二葉亭四迷(青空文庫)