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たけくらべ
―子供時代の淡い恋心を美しく描いた名作―

樋口一葉(1872~1896)の中編小説。明治28年(1895)1月~29年(1896)1月『文学界』断続連載。明治29年(1896)年4月『文芸倶楽部』一括掲載。

吉原近くに住む思春期前の子供たちが主人公。
遊女になることが決まっている美しい美登利と、将来僧侶になるまじめな信如。たがいに好意をもちながらも心はすれちがい、二人をますます遠ざけていく。

美登利の微妙な心理を鮮やかに描いており、哀愁ただよう名作である。文体は雅俗折衷体。

 まわれば大門おほもんの見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶ灯火ともしびうつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来ゆきゝにはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前だいおんじまへと名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社みしまさまの角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦いゑもなく、かたぶく軒端のきばの十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつかぬ処とてなかばさしたる雨戸の外に、あやしきなりに紙を切りなして、胡粉ごふんぬりくり彩色のある田楽でんがくみるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手当ことごとしく、一家内これにかゝりてれは何ぞと問ふに、知らずや霜月とり日例ひれいの神社に欲深様よくふかさまのかつぎたまふ是れぞ熊手のくだごしらへといふ、……(一)

 お歯ぐろどぶの角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風大黒傘の上をつかみて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずるずると抜けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。

 信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨をひさしに厭ふて鼻緒をつくろふに、常々つねづね仕馴しなれぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりはあせれども、何としてもうまくはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして置いた大半紙をつかみ出し、ずんずんと裂きて紙縷こよりをよるに、意地わるの嵐またもや落し来て、立かけし傘のころころと転がり出るを、いまいましい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乗せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。

 見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子がらすごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、かゝさん切れをつてもう御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ゆふぜんちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくももどかしきやうに、馳せでゝ縁先えんさき洋傘かうもりさすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。

 それと見るより美登利の顔は赤う成りて、のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後うしろの見られて、恐る恐る門のそばへ寄れば、信如もふつと振返りて、此れも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足はだしになりて逃げ出したき思ひなり。

 平常つねの美登利ならば信如が難義のていを指さして、あれあれ彼の意久地なしと笑ふて笑ふて笑ひ抜いて、言ひたいまゝのにくまれ口、よくもお祭りの夜は正太さんにあだをするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんをたゝかせて、お前は高見で采配さいはいを振つておいでなされたの、さあ謝罪あやまりなさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指図、女郎でもいでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父さんもありかゝさんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうななまぐさのお世話にはうならぬほどに余計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくすくすならで此処こゝでお言ひなされ、お相手には何時いつでも成つて見せまする、さあ何とで御座んす、とたもとらへてまくしかくる勢ひ、さこそは当り難うもあるべきを、物いはず格子かうしのかげに小隠れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とゞろかすは平常つねの美登利のさまにては無かりき。(十二)

 龍華寺りようげじの信如が我が宗の修業の庭に立出たちいづ風説うはさをも美登利は絶えて聞かざりき、ありし意地をば其まゝに封じ込めて、此処こゝしばらくの怪しの現象さまに我れを我れとも思はれず、唯何事もはづかしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門かうしもんの外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしの学林がくりんに袖の色かへぬべき当日たうじつなりしとぞ。(十六)