金色夜叉
―愛欲と金銭欲との葛藤を描いた尾崎紅葉未完の小説―
尾崎紅葉(1867~1903)の長編小説。明治30年(1897)1月1日~明治35年(1902)5月11日『読売新聞』に断続連載。未完。
高等中学生(現在の大学)在学中の間貫一は鴫沢宮と許婚であったが、宮は貫一を裏切り、富豪と結婚することとなった。
貫一は熱海の海岸で宮に「来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから」と言って行方をくらましてしまう。
その後、貫一は復讐のため高利貸となる。結婚後悔悟した宮は貫一に許しを請うが、受けつけなかった。しかし、そういう貫一もようやく宮からの手紙を開封するようにはなった、というところで中絶。
紅葉一代の大作で、映画化も多い。
憤を抑うる貫一の呼吸は漸く乱れたり。
「宮さん、お前はよくも僕を欺いたね」
宮は覚えず慄けり。
「病気といって此へ来たのは、富山と逢うためだろう」
「まあ、そればっかりは……」
「おおそればっかりは?」
「あんまり邪推が過ぎるわ、あんまり酷いわ。何ぼ何でもあんまり酷い事を」
泣入る宮を尻目に挂けて、
「お前でも酷いという事を知っているのかい、宮さん。これが酷いといって泣くほどなら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りはせんよ。
お前が得心せんものなら、此地へ来るに就いて僕に一言も言わんという法はなかろう。家を出るのが突然で、その暇がなかったなら、後から手紙を寄来すがいいじゃないか。
出抜いて家を出るばかりか、何の便もせんところを見れば、始から富山と出会う手筈になっていたのだ。あるいは一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦だよ。姦通したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、あんまりだわ、あんまりだわ」
彼は正体もなく泣頽れつつ、寄らんとするを貫一は突退けて、
「操を破れば奸婦じゃあるまいか」
「何時私が操を破って?」
「いくら大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見ているものかい! 貫一という歴とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所の男と湯治に来ていたら、姦通していないという証拠が何処に在る?」
「そう言われてしまうと、私は何とも言えないけれど、富山さんと逢うの、約束してあったのというのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等が此地に来ているのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
宮はその唇に釘打たれたるように再び言は出でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過を悔い、罪を詫びて、その身は未か命までも己の欲するままならんことを誓うべしと信じたりしなり。
よし信ぜざりけんも、心陰に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかりもさせる気色はなくて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変を、貫一はなかなか信しからず覚ゆるまでに呆れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪われたるよ。我命にも換えて最愛みし人は芥のごとく我を悪めるよ。
恨は彼の骨に徹し、憤は彼の胸を劈きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あわれ奸婦の肉を啖いて、この熱膓を冷さんとも思へり。忽ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪えずして尻居に僵れたり。
宮は見るより驚く遑もあらず、諸共に砂に塗れて掻抱けば、閉じたる眼より乱落つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨いて、迫れる息は凄しく波打つ胸の響を伝う。
宮は彼の背後より取縋り、抱緊め、撼動して、戦く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇に拭いたり。
「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜限だ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言うのも今夜限だよ。
一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!
再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!
いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」(前篇 第八章)
- 尾崎紅葉(ウィキペディア)
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- 作家別作品リスト:尾崎紅葉(青空文庫)