にごりえ
―女性の苦悩を美しく描いた樋口一葉の名作―
樋口一葉(1872~1896)の短編小説。
明治28年(1895)9月『文芸倶楽部』に発表。
新開町の銘酒屋菊の井の「一枚看板」お力は、妻子のある蒲団屋の源七と無理心中して果てる。
お力の痛切な絶望感には実感がこもり、一葉自身の気持ちが反映されている。
店は二間間口の二階作り、軒には御神灯さげて盛り塩景気よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処も見ゆ、勝手元には七輪を煽ぐ音折々に騒がしく、女主が手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理、表にかゝげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたゝめける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り焼肴とあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふは此家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面ざしが何処となく冴へて見へるは彼の子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜いとて軒並びの羨み種になりぬ。(一)
お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに唐天竺の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かゝつて暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声を其まゝ何処ともなく響いて来るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば為る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふかと一ト口に言はれて仕舞、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずか其様な事も思ふまい、思ふたとて何うなる物ぞ、此様な身で此様な業体で、此様な宿世で、何うしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦労する丈間違ひであろ、あゝ陰気らしい何だとて此様な処に立つて居るのか、何しに此様な処へ出て来たのか、馬鹿らしい気違じみた、我身ながら分らぬ、もうもう皈りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路を気まぎらしにとぶらぶら歩るけば、行かよふ人の顔小さく小さく摺れ違ふ人の顔さへも遥とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がやがやといふ声は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも気のまぎれる物なく、人立おびたゞしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは広野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかゝる景色にも覚えぬは、我れながら酷く逆上て人心のないのにと覚束なく、気が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。(五)
魂祭り過ぎて幾日、まだ盆提灯のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕にて一つはさし担ぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運のわるい詰らぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確かな証人もござります、女も逆上て居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろといふもあり、何のあの阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男に逢ふたれば、流石に振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしても居たらうなれど、切られたは後袈裟、頬先のかすり疵、頚筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる処を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲団やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、彼の子には結構な旦那がついた筈、取にがしては残念であらうと人の愁ひを串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。(八)
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- 樋口一葉(ウィキペディア)
- 作家別作品リスト:樋口一葉(青空文庫)