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人生論じんせいろんノート
―哲学者三木清による人生論―

三木清(1897~1945)著。
昭和13年(1938)、『文学界』6月号より連載。昭和16年(1941)刊。

「死について」から始まり、「幸福について」「懐疑について」「個性について」等、全23章からなる。
本書は著者の深い教養と思索から生み出されており、含蓄に富んだ内容となっている。

執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。(死について)

我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。(幸福について)

肯定が否定においてあるように、物質が精神においてあるように、独断は懐疑においてある。(懐疑について)

習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを為し得る。(習慣について)

虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。(虚栄について)

名誉心が虚栄心と誤解されることは甚だ多い、しかしまた名誉心は極めて容易に虚栄心に変ずるものである。(名誉心について)

人は軽蔑されたと感じたときによく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。(怒について)

虚無と人間とは死と生とのように異っている。しかし虚無は人間の条件である。(人間の条件について)

孤独が恐ろしいのは孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。(孤独について)

もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。(嫉妬について)

成功のモラルはオプティミズムに支えられている。それが人生に対する意義は主としてこのオプティミズムの意義である。(成功について)

瞑想を生かし得るものは思索の厳しさである。不意の訪問者である瞑想に対する準備というのは思索の方法的訓練をそなえていることである。(瞑想について)

噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しようもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り巻かれながら生きてゆくのほかない。(噂について)

利己主義者は自分では十分合理的な人間であると思っている。そのことを彼は公言もするし、誇りにさえもしている。彼は、彼の理智の限界が想像力の欠乏にあることを理解しないのである。(利己主義について)

健康というのは平和というのと同じである。そこに如何に多くの種類があり、多くの価値の相違があるであろう。(健康について)

どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。(秩序について)

感傷はただ感傷をび起す、そうでなければただ消えてゆく。(感傷について)

思想は仮説でなくて信念でなければならぬといわれるかも知れない。しかるに思想が信念でなければならぬということこそ、思想が仮説であることを示すものである。(仮説について)

虚栄が人生に若干の効用をもっているように、偽善も人生に若干の効用をもっている。(偽善について)

幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。(娯楽について)

希望は運命の如きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。(希望について)

旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。(旅について)

個性とはかえって無限な存在である。私が無限な存在であるというのは、私の心裡に無数の表象、感情、意欲が果しなく交替するという意味であろうか。(個性について)