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堕落論だらくろん
―坂口安吾の名エッセイ―

坂口安吾あんご(1906~55)のエッセイ。
昭和21年(1945)、『新潮』に発表。

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と逆説的な表現でそれまでの倫理観を否定、敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した。

本書は敗戦直後の人々に衝撃を与え、当時の若者たちから絶大な支持を得た。

 半年のうちに世相は変わった。しこ御楯みたてといでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋やみやとなる。

ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女たちも半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。

人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。

 昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼らが生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現われてはいけないという老婆心であったそうな。

現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終わらせたいということは一般的な心情の一つのようだ。

十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終わらせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私ときわめて親しかっためいの一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれてよかったような気がした。

一見清楚せいそな娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様まつさかさまに地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。

猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。

偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれは、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫ほうまつのようなむなしい幻影にすぎないという気持ちがする。

 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ、また地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。

節婦は二夫にまみえず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音あしおと、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音あしおとに気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫のごとき虚しい幻像にすぎないことを見いださずにいられない。

 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋やみやとなるところから始まるのではないのか。

未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。

そしてあるいは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかもしれない。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。

人間は永遠に自由ではあり得ない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。

政治上の改革は一日にして行なわれるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋やみやとなり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。

人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐かれんであり脆弱ぜいじやくであり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。