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氷川ひかわ清話せいわ
―勝海舟の談話筆記―

幕末明治の政治家・勝海舟(1823~1899)晩年の語録。明治31年(1898)頃刊行。

海舟は遣米使節を送るため咸臨丸の艦長として日本人による初の太平洋横断に成功。軍艦奉行に就任。王政復古の際、幕軍代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を果たす。以後、参議、海軍卿などを歴任。

本書は晩年、海舟が赤坂氷川の自邸において、人物評、時局批判等を自由奔放に語ったもの。また、史実の裏話などもあり、貴重な証言となっている。

さて、おれが咸臨丸に乗って、いよいよ江戸を出帆しようという場合になると、幕府ではなかなかやかましい議論があって、容易に承知しない。そこでおれも、「勝鱗太郎りんたろうが、自ら教育した門生を率いてアメリカへ行くのは、日本海軍の名誉である」と主張して、とうとう万延元年の正月に、江戸を出帆することになったのだ。(咸臨丸で太平洋を渡る)

江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷〔隆盛〕が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ。そうすると皆のものは、この国事多難の際に、勝の気楽にはこまるといって、つぶやいていたようすだったが、なに相手が西郷だから、むちゃなことをする気づかいはないと思って、談判のときにも、おれは欲はいわなかった。「ただ幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは頼むぜ」といったばかりだった。それに西郷は、七十万石くれると向こうからいったよ。(相手をよく見て交渉せよ)

さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。
「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」
西郷のこの一言で、江戸百万の生霊〔人間〕も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。(品川での談判)

藤田東湖は、おれはだいきらいだ。あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者で、ひとかど役にたちそうな男だったが、ほんとうに国を思うという赤心まごころがない。もしも東湖に赤心があったら、あのころの水戸は、天下のご三家だ。直接に幕府へ意見を申しいずればよいはずではないか。それになんぞや、かれ東湖は、書生を多勢集めて騒ぎまわるとは、実にけしからぬ男だ。おれはあんな流儀は大嫌いだ。おれなどは、一つの方法でいけないと思ったら、さらに他の方法を求めるというふうに、議論よりはとにかく実行でもって国家に尽くすのだ。(藤田東湖)

小説もたいくつなときには、読んでみるが、露伴という男は、四十歳ぐらいか。あいつなかなか学問もあって、今の小説家には珍しく物識りで、少しは深そうだ。聞けば、郡司大尉の兄だというが、兄弟ながらおもしろい男だ。(幸田露伴)

紅葉というのは才子だ。小説のほかにも仕事のできるやつだ。書いたものに、才気が現われている。(尾崎紅葉)

人には余裕というものがなくては、とても大事はできないよ。昔からともかくも一方の大将とか、一番槍いちばんやりの功名者とかいうものは、たとえどんなふうに見えてもその裏の方からのぞいて見ると、ちゃんと分相応に余裕を備えていたものだよ。(余裕のある人間たれ)

世の中に無神経ほど強いものはない。あの庭前のトンボをごらん。尻尾しっぽを切って放しても、平気で飛んで行くではないか。おれなども、まあトンボぐらいの処で、とても人間の仲間入りはできないかもしれない。

むやみに神経を使って、やたらに世間のことを苦に病み、朝から晩まで頼みもしないことに奔走して、それがために頭がはげ、ひげが白くなって、まだ年も取らないのにもうろくしてしまうというような憂国家とかいうものには、おれなどはとてもなれない。(無神経の強さ)