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チベット旅行記りょこうき
―鎖国のチベットに潜入した河口慧海師の旅行記―

チベット旅行記
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仏教学者河口かわぐち慧海えかい(1866~1945)のチベット探検記。明治36年(1903)東京時事新報・大阪毎日新聞に連載、明治37年(1904)博文館から出版。

河口慧海はもと黄檗宗の僧。大阪堺の出身。幼名は定次郎。東京の哲学館(東洋大学の前身)を卒業したのち、明治23年(1890)に出家した。

明治30年(1897)仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を学んだ。明治32年(1899)日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国し、セラ大学に学んだが、国籍が発覚して明治36年(1903)帰国。

本書はチベット旅行の記録であるのみならず、現在でもなおチベット学第一級の文献として評価されている。

チベット入国の決意
 チベット探険の動機 私がチベットへ行くようになった原因は、どうか平易にして読みやすい仏教の経文を社会に供給したいという考えから、明治二十四年の四月から宇治の黄檗おうばく山で一切蔵経いっさいぞうきょうを読み始めて二十七年三月まで、ほかの事はそんなにしないで、もっぱらその事にばかり従事しておりました。

その間に私が一つ感じたことがあります。それは素人にも解りやすい経文をこしらえたいという考えで、漢訳を日本語に翻訳したところが果してそれが正しいものであるかどうか、サンスクリットの原書は一つでありますが、漢訳の経文は幾つにもなっておりまして、その文の同じかるべきはずのものが、あるいは同じものもあればまた違っているのもあります。

甚だしきは全くその意味を異にしているのもあり、また一つの訳文に出ておる分がほかの本には出ておらないのもあり、順序の顚倒したのもあるというようなわけで種々雑多になっております。

しかし、その梵語ぼんごの経文を訳した方々かたがたは、決して嘘をつかれるような方でないからして、これには何か研究すべきことがあるであろう。

めいめい自分の訳したのが原書に一致していると信じておられるに違いあるまい。もししからば、そんなに原書の違ったものがあるのか知らん。

あるいはまた訳された方々がその土地の人情等に応じて、幾分か取捨を加えたような点もあり、その意味を違えたのもあるか知らん。

何にしてもその原書に依って見なければ、この経文のいずれが真実でいずれがいつわりであるかは分らない。これは原書を得るに限ると考えたのであります。

山上雪中の大難
 一難免れてまた一難 その翌日好い都合に日も照ったものですから、濡れた着物と経文を乾かしました。その濡れたあとのついた法華経、三部経のごときものは、今なお私の手に紀念物として保存してあるです。

その紀念物を見る度に、どうしてあの時助かったろうかと、不思議な感じが起るくらいです。

 ちょうど一時頃、荷物を整えて段々西北の山の方に進んでまいったところが、昨日の疲れがひどいのと荷物はほぼ乾いているけれども、一体に湿り気を帯びているので非常に重い。

その上、少しは羊の荷物をすけてやらねばならんような場合になったので、なおさら自分の荷物が重いのに、川底の石で足の先を切ったものですから、その痛みがまた非常に厳しい。

だから進むに非常に困難でしたが、しかし、一足向うに行けば一足だけ目的地に近づくわけでありますから、とにかくぼつぼつと進むべしというので、緩々ゆるゆると構えながら二里ばかり行きますと、雪が降り出して風も大分はげしくなりましたから、その辺に泊る処を求めて、ある小さな池の端に着きました。

けれども、薪も何も拾う暇がない。大変な雷が鳴り出して暴雪暴風という凄じい光景ですから、着物なり荷物なりはまた濡れてしまい、せっかく乾したものをすっかりとまた濡らしてしまいましたから、翌日またそれを乾かさなければならん。

茶も飲まなかったから随分腹もすいている。けれども薪がないからどうすることもできない。乾葡萄だけ喰って昼までその着物を乾かして、それから出掛けたです。

この日が真に大危難の起った日で、そういう事が起ろうとは夢にも考えませんでした。さて西北の方に高い山が見えている。しかし、ほかの方を見るとどうも行けそうな道がないから、とにかくかの西北の雪の峰を越ゆれば、必ず目的地のカン・リンボ・チェ、すなわちマウント・カイラスの辺に達することができるであろうという考えを起しました。

後に聞いてみると、その雪の峰はコン・ギュ・イ・カンリという二万二千六百五十フィートの高い山であったです。

 その山に段々進んで急坂を四里ばかり登っておりますと、もはや午後五時頃でまた暴風が起って大雪が降り出した。そこで考えたことは、これからこの山をどしどし登ったならば、今夜はこの高山の積雪のために凍えて死ぬようなことが起るであろう。

だから目的地へ指して行くことは後のことにして、差し当り山のふもとの川へ向って降って行かなければならんと思い、それから方向を転じて北東の方へ降って行くと、雪はますます降りしきり日も迫々暮れてきた。

のみならず、坂は非常な嶮坂けんばんでなかなか降るに困難である。あたりには泊るに都合の好い岩もないものですから、どこかそういう場所の見つかるまで降ろうという考えで進んでまいりました。

どこを見ても雪ばかりで、岩もなければ隠れ場も分らない。途方に暮れたが、といってその辺に坐り込む場所もなし、雪はすでに一尺ばかり積っておるです。

とにかくどんな処か見つかるまで行こうという考えで羊を追い立てますと、よほど疲れたとみえて少しも動かない。無理もない。相当の荷物を背負っている上に、今日昼までは草を喰っておりましたけれども、その後は高山に登って来たのですから草も得られなかった。

さあ進むことができないといって進まずにゃあいられないから、可哀そうではございますけれども、押強く後から叩きつけてみたりいろいろなことをしたが、羊はもう動かない、坐っちまって……。

ようやくのことで首に掛けてある綱を引っ張って二間ばかり進むと、また羊が雪中に坐り込んでしまって一歩も動かない。どうもしようがない。はてどうしようか知らん。

この雪の中に寝れば死ぬにきまってる。もうすでに自分の手先に覚えがないほど凍えておりますので、羊の綱を持っているその手を伸ばすことができないほど、苦しゅうございますけれども、このまま積雪の中に立ち往生するわけにいかんから、どうかこの羊を起して進ませんければならんという考えで、また一生懸命に力をこめて、羊と戦いながら半町ばかり行きますと、またどっかり倒れていかにも苦しそうな息をついているから、こりゃ今晩この山で凍え死ぬのか知らん、どうにか方法がつかないか知らん。

どこにかテントのある処が分っていれば、羊を棄てて出掛けるけれども、この間聞いたところでは十四、五日も人に逢わんであろうというから、どこへ行ってみたところがどうせ人のいる処に着かないにきまっている。

こりゃもう、どうしても羊と一緒に死なねばならんのかと途方に暮れておりました。どうも致し方がないから、羊の荷物をおろして夜着を取り出してそれをかぶり、それから頭の上から合羽を被ってしまいまして、そこで羊の寝転んでいる間へはいって積雪中の坐禅ときめこんだです。

羊もその方がよいとみえて、じーっと私の側へ寄って寝ていました。これが随分暖みを持つ助けになったろうと思う。その羊もよほど私に慣れているものですから、まるで私の子のような工合に、二つが左右に寄り添うて寝ておったです。

可愛かわいいようにもあり可哀そうでもあり、じーっと見ていると、二疋ともさも悲しそうな声を出して泣いている。いかにも淋しく感じましたが、どうもしてみようがない。

何かやりたいと思ってもそこらに草もなし、自分はもとより午後は一切喰わんのが規則ですから、ただ懐中から丁子油を出して、夜着を着ている窮屈な中で身体へ塗り付けました。

すると大分に温度が出てまいりました。一体油を塗るということは、外界の空気の侵入をふせぐと同時に、体温を保つ効能があるようです。殊にこの丁子油は、体温を保つ目的をもってこしらえたものであるから、非常に暖みを感じたです。

それからまた口と鼻から出るところの呼吸を止めるような塩梅あんばいにしておりましたが、それはこの呼吸が当り前に外へ出たり内に入ったりして、外界と交通しますと、身体の温度を保つに困難であろうという考えであった。

こうしてよほど温度を保っておりましたが、十二時頃からどうも段々と寒さを感じて、非常に感覚が鈍くなって、何だかこう気が変になってぼんやりしてきた。

人間の臨終いまわきわというものは、こういう工合に消えて行くものであろうかというような感覚が起ってきたのです。