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出家しゅっけとその弟子でし
―『歎異抄』を戯曲化した宗教文学の名作―

出家とその弟子
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倉田百三(1891~1943)の戯曲。大正5年(1916)、同人誌『生命の川』に発表。翌年岩波書店刊。

親鸞とその息子善鸞、弟子の唯円の葛藤を軸に、『歎異抄』の教えを戯曲化したもの。

恋愛と性欲の相克という問題が率直に示されており、多くの感動をよんできた。英語、ドイツ語、フランス語、中国語に訳され、ロマン・ロランの激賞を受けている。

唯円 お師匠様、あの(顔を赤くする)恋とはどのようなものでございましょうか。

親鸞 (まじめに)苦しいものだよ。

唯円 恋は罪の一つで御座いましょうか。

親鸞 罪にからまったものだ。この世では罪をつくらずに恋をすることは出来ないのだ。

唯円 では恋をしてはいけませんね。

親鸞 いけなくても誰も一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が眼の前にひらけるのだ。この関所の越え方の如何いかんで多くの人の生涯はきまると云ってもいい位だ。

唯円 そのように重大なものですか。

親鸞 二つとない大切な生活材料だ。真面目にこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての智慧の芽が一時に眼める。魂はものの深い本質を見る事が出来るようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向えば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向うの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所の此方こちらで精力がきてへとへとになってしまうのだ。

唯円 では恋と信心とは一致するもので御座いましょうか。

親鸞 恋は信心に入る通路だよ。人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識に入り込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみが解るのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ。

唯円 では私は恋をしてもよろしいのですか。

親鸞 (ほほえむ)お前の問い方は愛らしいな。私はよいとも悪いとも云わない。恋をすればするでよい。ただまじめに一すじにやれ。

唯円 あなたも恋をなさいましたか。

親鸞 うむ。(間)私が比叡山で一生懸命修行している頃であった。慈鎮じちん和尚様の御名代ごみょうだいで宮中に参内して天皇の御前で和歌をませられた。その時の題が恋というのだよ。ところが数多あまた公家くげたちの歌詠みの中で私のが一番すぐれているとて天皇のお気に召したのだよ。そして御褒美ほうびをばいただいた。私は恐縮して退さがろうとした。すると公家の中の一人がかような歌を読むからにはお前は恋をしたのに相違ない。恋をした者でなくては解らぬ気持だ。どうだ恋をした事があるだろうと訊くのだ。

唯円 あなたは何とお答え遊ばしましたか。

親鸞 そのような覚えはありませんと云った。するとその公家がそのような嘘を云っても駄目だ。出家の身で恋をするとはしからんと云うのだ。他の公家たちがクスクス笑っているのが聞えた。

唯円 まじめに云ったのではないのですか。

親鸞 からかって笑草にしたのだよ。私は威厳をきずつけられて御所を退出した。どんなに恥しい気がしたろう。それから比叡山に帰る道すがら、私はまじめに考えてみずにはいられなかった。私は本当に恋を知らないのであろうか。私はそうとは云えなかった。では何故なぜ恋をしましたと云えなかったのか? 何故嘘をついたのか。出家は恋をしてはいけない事になっているからだ。私はいやな気がした。私は自分らの生活の虚偽を今更のように憎悪ぞうおした。そして山上の修行が一つの型になっているのがたまらなく偽善のように感じられた。その時から私は山を下る気を起しだした。もっと嘘をつかずに暮らす方はないか。恋をしても救われる道はないかと考えずにはいられなかった。

唯円 およそ悪の中でも偽善ほど悪いものは無いのですね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりも仏に遠いとおっしゃいましたね。

親鸞 その通りだ。百の悪業あくごうに催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んで己れの悪を認めぬ偽善者の方が仏の愛にはもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けて下さるのだ。悪人のための救いなのだからな。

唯円 善いものでなくては助からぬという聖道しょうどうの教えとは何という相違でございましょう。

親鸞 他人はともあれ、私のようなものはそれでは助かる見込みはつかないのだ。私は今でも忘れ得ぬが、六角堂に夜参りして山へ帰る道で一人の女に出遇ってね。寒空に月が氷りつくように光っている夜だったよ。私を山へ連れて登ってくれというのだ。私は比叡山は女人禁制で女は連れて登る訳に行かないと断ったのだ。すると私の衣の袖にすがって泣くのだ。私も修行して助けられたいから是非山へ連れて行って出家にしてくれと一生懸命に哀願するのだ。幾ら云っても聴き入れないのだ。はては女は助からなくてもよいのですかと怨むのだ。私は実に困った。山の上では女は罪深くして三世さんぜの諸仏も見捨て給うということになっているのだ。仕方がないから私はその通りを云ってあきらめさせようとした。すると女は見る見る真青な顔をした。やがて胸を叩いて仏をのろう言葉を続発した。それから一目散に走って逃げてしまった。

唯円 まあ可哀想な事をなさいましたね。

親鸞 でも山の上へは連れて行けなかったのだ。嵐で森ははげしく鳴っていた。私は女の呪いが胸の底にこたえて夢中で山の上まで帰った。その夜はまんじりともしなかった。それからというものは私は女も救われなくては嘘だという気が心から去らなくなった。私は毎夜々々六角堂に通って観音様に祈った。夢中で泣いて祈った。私は死んでもよいと思った。私はその頃からものの見方が大分変って来だした。山上の生活を嫌う心は極度に達した。私は六角堂から帰りによく三条の橋の欄杆らんかんにもたれて往来の人々を眺めた。むずかしそうな顔をした武士や、胸算用に余念の無さそうな商人や、娘を連れた老人などが通った。或は口笛を吹きながらくるわへ通うらしい若者も通った。私はどんなに親しく其の人たちを眺めたろう。皆許されねばならないような気がした。世のすがたをあるがままに保って置く方がよいという気がした。「このままで、このままで」と私は心の中に叫んだ。「みんな助かっているのでは無かろうか」と。山へ帰っても、もはや、其処そこは私の住み家ではない気がした。

唯円 その時法然上人にお逢いなされたのですね。

親鸞 まったく観音様の御ひきあわせだよ。私は法然様の前で泣けて泣けて仕方がなかったよ。

唯円 (涙ぐむ)あなたのお心は私にもよく解ります。(第二幕)