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舞姫まいひめ
―森鷗外の格調高い悲恋物語―

森鷗外(1862~1922)の短編小説。
明治23年(1890)1月、『国民之友』に発表。処女作。

ベルリンに留学したエリート官僚の太田豊太郎とよたろうが薄幸の踊り子エリスと恋仲になるが、出世のために帰国することを選び、妊娠中のエリスは発狂してしまう。

流麗な雅文体で書かれており、格調高い。
自伝的要素の強い作品でもある。

 石炭をばや積み果てつ。中等室のつくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきもいたづらなり。

今宵こよひは夜毎にここに集ひ来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば。

五年前いつとせまへの事なりしが、平生ひごろの望足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港までし頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとしてあらたならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日けふになりておもへば、をさなき思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常よのつねの動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるししを、心ある人はいかにか見けむ。

こたびは途に上りしとき、日記にきものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸ドイツにて物学びせしに、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。

 これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、そのなること赤児の如くなり。

医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒ちゆの見込なしといふ。

ダルドルフの癲狂院てんきよういんに入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓むつき一つを身につけて、幾度かいだしては見、見ては欷歔ききよす。

余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。ただをりをり思ひ出したるやうに「薬を、薬を」といふのみ。

 余が病は全くえぬ。エリスが生けるかばねを抱きて千行ちすぢの涙をそそぎしは幾度ぞ。

大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢とはかりてエリスが母にかすかなる生計たつきを営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内にのこしし子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。

 嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡のうりに一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。