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高瀬舟たかせぶね
―森鷗外の短編歴史小説の傑作―

高瀬舟

森鷗外(1862~1922)の短編小説。大正5年(1916)1月『中央公論』に発表。

喜助きすけは、自殺を図った弟の喉の剃刀かみそりを抜いてやったことで弟を殺したとされ、遠島を申し渡された。

その遠島の途中、高瀬川を下る小舟の中でいかにも楽しそうであり、不審に思った同心の羽田庄兵衛がその理由を尋ねる。

喜助は、罪人になって生まれて初めて二百文の銭を自分の財産として持つことができてうれしいと答える。

極貧の生活を送ってきた喜助の「財産というものの観念」について、庄兵衛はわが身と引き比べて深く考え込んでしまう。そしてこの欲のない喜助から、足ることを知ることの大切さを教えられる。

また、この作品は現代の視点で見た場合、安楽死の問題についても問うていることになる。

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いとまごひをすることを許された。

それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立おもだつた一人を、大阪まで同船させることを許す慣例であつた。

「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふおあしを、かうして懐に入れて持つてゐたことはございませぬ。

どこかで為事しごとに取り附きたいと思つて、為事しごとを尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。

そして貰つた銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。

それがお牢に這入つてからは、為事しごとをせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。

それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相変らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出来ます。

お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな為事しごとが出来るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする為事しごと本手もとでにしようと楽んでをります。」かう云つて、喜助は口をつぐんだ。

 さて桁を違へて考へて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出来る。

しかしいかに桁を違へて考へて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。

 喜助は世間で為事しごとを見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出来るだけで満足した。

そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ満足を覚えたのである。

 庄兵衛は只漠然と人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。

万一の時に備へるたくはえがないと、少しでもたくはえがあつたらと思ふ。たくはえがあつても、又其たくはえがもつと多かつたらと思ふ。

此の如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衛は気が附いた。