風土記
―諸国で編纂された官撰の地誌―
713年、元明天皇の詔により諸国で編纂された官撰の地誌。
日本各地の地名の由来・伝説・産物などを諸国に報告編纂させた。
出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の五か国のものが現存するが、完全に残っているのは『出雲国風土記』のみ。他に三十数か国分の逸文が残存する。文体は国文体を交えた漢文体。
出雲と号くる所以は、八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ」と詔りたまひき。故、八雲立つ出雲と云ふ。
秋鹿と号くる所以は、郡家の正北に、秋鹿日女命坐す。故、秋鹿を云ふ。
恵曇の郷。郡家の東北九里四十歩なり。須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡行り坐しし時に、此処に至り坐して詔りたまひしく、「此処は、国稚く美好く有り。国形、画鞆の如き哉。吾が宮は、是処に造事らむは」。故、恵伴と云ふ。
神名火山。郡家の東北九里四十歩。高さ二百三十丈、周り一十四里。所謂佐太大神の社は、即ち彼の山下之。
通道。
島根の郡の堺なる佐太橋に通ふ、八里二百歩。
楯縫の郡の堺なる伊農橋に通ふ、一十五里一百歩。(出雲国風土記)
常陸の国の司、解す。古老の相伝ふる旧聞を申す事。
国郡の旧事を問ふに、古老答へて曰へらく、古は、相摸の国足柄の岳坂より東の諸の県、惣べて我姫の国と称ひき。是の当時、常陸と言はず。唯、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の国と称ひ、各、造・別を遣はして撿挍めしめき。
古老の曰へらく、筑波の県は、古、紀の国と謂ひき。美万貴の天皇の世、采女臣の友属、筑箪命を紀の国の国造に遣はしし時、筑箪命の曰ひしく、「身が名をば国に着けて、後の代に流伝へしめむと欲ふ」といひて、即ち本の号を改めて、更に筑波と称ふといへり。
或るもの曰へらく、山の佐伯、野の佐伯、自ら賊の長と為り、徒衆を引率て、国中を横しまに行き、大く劫め殺しき。時に黒坂命、此の賊を規り滅さむとて、茨を以ちて城を造りき。所以に、地の名を便ち茨城と謂ふといひき。(常陸国風土記)
- 風土記(ウィキペディア)