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暗夜あんや行路こうろ
―志賀直哉唯一の長編小説―

志賀直哉なおや(1883~1971)の長編小説。
大正10年(1921)1月~昭和12年(1937)4月、『改造』に断続連載。前編は1922年新潮社刊。後編は1937年改造社の『志賀直哉全集』に収録。

前編は主人公時任ときとう謙作が、母と祖父の子であることを知るまでの青春期の不安と動揺を、後編は主人公が妻の過失に悩み、それを克服していく過程を描く。

場面は東京、尾道、京都、山陰の大山と移る。とくに尾道や大山における自然描写は有名。わが国心境小説の代表作。

 私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月ふたつきって、不意に祖父が私の前に現われて来た、その時であった。私の六歳むっつの時であった。

 る夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人が其処そこへ来て立った。眼の落ちくぼんだ、猫背のなんとなく見すぼらしい老人だった。私は何という事なくそれに反感を持った。

 老人は笑顔を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いてしまった。釣上つりあがった口元、それを囲んだ深いしわ、変に下品な印象を受けた。「早く行け」私は腹でそう思いながら、なお意固地に下を向いていた。

 然し老人は中々その場を立ち去ろうとはしなかった。私は妙に居堪いたたまらない気持になって来た。私は不意に立上って門内へけ込んだ。その時、

「オイオイお前は謙作けんさくかネ」と老人が背後うしろからった。

 私はその言葉で突きのめされたように感じた。そして立止った。振返った私は心では用心していたが、首はいつか音なしく点頭うなずいて了った。

「お父さんは在宅うちかネ?」と老人がいた。

 私は首を振った。然しこのうわ手な物言いが変に私を圧迫した。

 老人は近寄って来て、私の頭へ手をやり、
「大きくなった」と云った。

 この老人が何者であるか、私にはわからなかった。然し或る不思議な本能で、それが近い肉親である事を既に感じていた。私は息苦しくなって来た。(前篇 序詞 主人公の追憶)