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夜明よあまえ
―島崎藤村の自伝的歴史小説―

島崎藤村とうそん(1872~1943)の長編小説。
昭和4~10年にかけて年4回『中央公論』に連載。

中仙道馬籠まごめ宿で本陣、庄屋、問屋を兼ねた青山半蔵の悲劇的な生涯を軸として幕末維新の動乱期を描いた歴史小説。

なお、半蔵のモデルは藤村の父島崎正樹。

第一部
 序の章
 一
 木曾路きそじはすべて山の中である。あるところはそばづたいに行くがけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道かいどうはこの深い森林地帯を貫いていた。

 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠じっきょくとうげまで、木曾十一宿しゅくはこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷けいこくの間に散在していた。

道路の位置も幾度いくたびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間やまあいうずもれた。

名高いかけはしも、つたのかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。

 上巻
 第一章
 一
 七月に入って、吉左衛門きちざえもん木曾福島きそふくしまの用事を済まして出張先から引取って来た。

その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立しほうだての件で、馬籠まごめ宿しゅくとしては金百両の調達を引き請け、暮に五十両の無尽むじんを取り立ててその金は福島の方へ廻し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終ったことを届けて置いてあった。

今度、福島からその挨拶があったのだ。

 下巻
 第八章
 一
 「もう半蔵も王滝おうたきから帰りそうなものだぞ。」

 吉左衛門きちざえもんは隠居の身ながら、せがれ半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠まごめ本陣の裏二階を降りた。

彼の習慣として、一寸ちょっとそこいらを見廻りに行くにも質素な平袴ひらばかまぐらいは着けた。

それに下男の佐吉が手造りにした藁草履わらぞうりをはき、病後は兔角とかく半身の恢復かいふくも遅かったところからつえを手放せなかった。

第二部
 上巻
 第一章
 一
 円山応挙まるやまおうきょが長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくは和蘭オランダ船なるものは、風の力によって遠洋を渡って来る三本マストの帆船であったらしい。

それは港の出入りにき船を使うような旧式な貿易船であった。

それでも一度それらの南蛮船が長崎の沖合に姿を現わした場合には、急を報ずる合図の烽火のろしが岬の空に立ち登り、海岸にある番所番所はにわかにどよめき立ち、あるいは奉行所へ、あるいは代官所へと、各方面に向う急使の役人は矢のように飛ぶほどの大騒ぎをしたものであったという。

 下巻
 終の章
 六
 その時になって見ると、旧庄屋として、また旧本陣問屋としての半蔵が生涯もすべて後方うしろになった。すべて、すべて後方になった。

ひとり彼の生涯が終を告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく廻りかけていた。

人々は進歩をはらんだ昨日の保守に疲れ、保守をはらんだ昨日の進歩にも疲れた。

新しい日本を求める心は漸く多くの若者の胸にきざして来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。

その間にあって、東山道工事中の鉄道幹線建設に対する政府の方針はにわかに東海道に改められ、私設鉄道の計画も各地に興り、時間と距離とを短縮する交通の変革は、あたかも押し寄せて来る世紀の洪水のように、各自の生活に浸ろうとしていた。

勝重は師匠の口から僅かに泄れて来た忘れがたい言葉、「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」というあの言葉を思い出して悲しく思った。

「さあ、もう一息だ。」

 その声が墓掘りの男達の間に起る。続いて「フム、ヨウ」の掛け声も起る。

半蔵を葬るためには、寝棺を横たえるだけのかなりの広さ深さもるとあって、掘り起される土はそのあたりに山と積まれる。

強い匂いを放つ土中をめがけて佐吉等がくわを打ち込む度に、その鍬の響が重く勝重のはらわたにこたえた。

一つの音の後には、また他の音が続いた。