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おんな
―近代的自我に目覚めた女性の反逆と自滅の半生―

有島武郎たけお(1878~1923)の長編小説。
前後編2冊。大正8年(1919)刊。

かつて木部孤笻こきょうとの恋愛結婚に失敗した主人公葉子は、再婚のため在米中の木村貞一のもとに向かう。その船中で、野性的な事務長倉地の情熱にひかれ、本能の赴くままに彼に身を任せてしまう。

アメリカに上陸せずに帰国した葉子は倉地と同棲するが、世間的な非難を受ける。倉地がスパイ行為を働くようになり、葉子も健康を害して、ふたりの生活は崩壊してしまう。ひとり病室のなかで葉子は悲痛な叫びを残し、その生を閉じる。

自由奔放に生きたひとりの勝気な女性の姿が悲劇的に描かれており、また前編に顕著な対社会的な問題意識もみられ、わが国リアリズム文学の傑作と評されている。

 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手際よく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは十分に持っていた。

十五の時に、はかまひもめる代りに尾錠びじょうで締める工夫をして、一時女学生界の流行を風靡ふうびしたのも彼女である。

そのあかくちびるを吸わして首席を占めたんだと、厳格でとおっている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮名を負わせたのも彼女である。

上野うえのの音楽学校に這入ってヴァイオリンの稽古けいこを始めてから二ケ月程のあいだにめきめき上達して、教師や生徒の舌をかした時、ケーべル博士はかせ一人ひとりは渋い顔をした。

そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と不愛想ぶあいそに云って退けた。それを聞くと「そうで御座いますか」と無造作むぞうさに云いながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。

基督教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男勝りのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人おっとを全く無視して振舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指ぼし食指しょくしとのあいだちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。

葉子の目にはすべての人が、殊に男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男を可なり近くまでくぐり込ませて置いて、もう一歩という所でつきはなした。

恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても自分との関係の絶頂が何処どこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情容赦もなくその男を振捨ててしまった。

そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼等は等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。

何故というと、彼等は一人ひとりとして葉子に対して怨恨えんこんを抱いたり、憤怒ふんぬを漏らしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者達は自分の愚を認めるよりも葉子をとし不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。(二)

 しずかにではあるけれども倉地の心は段々葉子の心持ちに染められて行くようだった。葉子をかきいだく倉地の腕の力は静かに加わって行った。

その息気いきづかいは荒くなって来た。葉子は気が遠くなるように思いながら、締め殺すほど引きしめてくれと念じていた。そして顔を伏せたまま涙のひまから切れ切れに叫ぶように声を放った。

「捨てないで頂戴ちょうだいとは云いません……捨てるなら捨てて下さってもよう御座んす……その代わり……その代わり……はっきり仰有おっしゃって下さい、ね……私はただ引きずられて行くのがいやなんです……」

「何を云ってるんだお前は……」
 倉地のかんでふくめるような声が耳もと近く葉子にこうささやいた。

「それだけは……それだけは誓ってください……ごまかすのはわたしはいや……いやです」

「何を……何をごまかすかい」

「そんな言葉がわたしはきらいです」

「葉子!」

 倉地はもう熱情に燃えていた。しかしそれは何時いつでも葉子を抱いた時に倉地に起る野獣のような熱情とは少し違っていた。

そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれを嬉しくも思い、物足らなくも思った。

 葉子の心の中は倉地の妻の事を云い出そうとする熱意で一杯になっていた。その妻が貞淑な美しい女であると思えば思う程、その人が二人ふたりの間にはさまっているのがのろわしかった。

縦令たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ湛念たんねんが出来ないようなひた向きに狂暴な欲念が胸の中でははち切れそうに煮えくり返っていた。

けれども葉子はどうしてもそれを口ののぼせる事は出来なかった。

その瞬間に自分に対する誇りが塵芥ちりあくたのように踏みにじられるのを感じたからだ。

葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地の方から一言ひとこともそれを云わないのが恨めしかった。

倉地はそんな事は云うにも足らないと思っているのかもしれないが……いいえそんな事はない、そんな事のあろうはずはない。

倉地は矢張り二股ふたまたかけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんなみだらな未練があるはずだ。

男の心とは云うまい、自分も倉地に出遇であうまでは、異性に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いて見る事が出来たのだ。

……葉子はここにも自分の暗い過去の経験のめに責めさいなまれた。

進んで恋のとりことなったものが当然陥らなければならない例えようのない程暗く深い疑惑は後から後から口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉どおりに張り裂けようとしていた。(二十六)