東海道四谷怪談
―歌舞伎史上の最高傑作―
歌舞伎脚本。世話物。五幕。四世鶴屋南北作。文政八年(1825)江戸中村座初演。
塩冶家の浪人民谷伊右衛門は、伊藤喜兵衛の孫娘お梅に恋され、女房お岩を虐待して憤死させ、また家伝の薬を盗んだ小仏小平を惨殺し、お岩の死体とともに戸板の両面にくくりつけて川へ流す。後、二人の亡霊が伊右衛門を悩ます。
怪談物の代表作。通称『四谷怪談』。
二幕目 伊藤喜兵衛内の場
いわ 髪もおどろの此すがた。せめて女の身だしなみ、かねなと付て髪もすき上、喜兵衛親子に詞の礼○。
ト思入あつて、
是、おはぐろ道ぐ、これ爰へ。
宅悦 産ぷのお前が、かねつけても
いわ 大事ない。さヽ、はよふ。
宅悦 すりや、どふあつても。
いわ ヱ、聞みゝ、もたぬわいの○。
トじれていふ。宅悦、びつくりして、はいと思入。是より独吟に成、宅悦、かねつけの道ぐをはこぶ事。蚊いぶし火ばちへおはぐろをかけ、さんすいなるはんぞふ、そまつ成小道ぐ。よろしくかねつけあつて、件の赤子なくを、宅悦かけ寄、いぶりつける。此内、歌いつぱいにきれる。お岩、くだんのくしを取て、
母のかたみの此くしも、わしが死んだらどふぞ妹へ○。アヽ、さわさりながらおかたみの、せめて櫛のはをとふし、もつれしかみを。ヲヽ、そふじや。
ト又歌に成、くだんのくしにて髪をすく事。赤子なく。宅悦、だいていびりつける。此内、歌いつぱいに切る。お岩、くだんのくしをとつて思入有り、お岩は此内すきあげ、落げ、前へ山のごとくにたまるをみて、くしも一つにもつて、
今をも知れぬ此岩が、死なばまさしく其娘、祝言さするは是眼前。たゞうらめしきは伊右衛門殿。喜兵衛一家の物共も、何あんをんに、有べきや。思へば思へば。ヱヽ、うらめしい。
トもつたる落毛、くしもろとも、一つにつかみ、急度ねぢ切る。髪の内より、血たらたら落て、前成、たをれし白地の対ひ立へ、其ちかヽるを、宅悦みて、
宅悦 やヽ、あの落毛から、したヽるなま血は。
トふるへ出す。
いわ 一念とふさでおくべきか。
トよろよろ立上り、向ふをみつめて立ながら、息引きとる思入。宅悦、子をだき、かけよつて、
宅悦 これ、おいわさまおいわさま、もしもし○。
三幕目 砂村隠亡堀の場
伊右 よしなき秋山うせた斗、口ふさぎに大事の墨付、あいつに渡て此身の旧悪。ハテ、いらざる所へうせずとよいに○。
ト思入、
南無三、くれたナ、どりや、さをヽあげよふか○。
トすごき合方、薄どろどろ、時のかね。此時、両窓おろし、くらくなる。伊右衛門、さおを上げてしまふ。此時、こもをかけし杉戸流よる。伊右衛門、思わず引きよせて、
覚の杉戸。
ト引きよせて一方をとる。爰に、おいわの死がい、肉だつせしこしらへ。此時薄どろどろにて、両眼見開いて、鼠のくわへし最前の守をもつてゐる。伊右衛門、思入有、
お岩お岩、コレ、女ぼう、ゆるしてくれろ。往生しろよ。
ト此時お岩、伊右衛門をきつと見つめ、守り袋をさしつけ、
いわ うらめしい伊右衛門どの。田みや、伊藤の血筋をたやさん。
ト守をさし出し、みつめるゆへ、こわげだつて、手早、くだんのむしろをかけて、
伊右 まだうかまぬナ。南無阿みだ仏南無阿みだ仏、このまヽ川へつき出したら、とびや、からすの○。ごふが尽たら仏になれ。
ト戸板をかへしみる。うしろには藻をかぶりゐる小平の死がい。伊右衛門、見定んとする。薄どろどろに成、かほにかヽりしもは、ばらばらと落て、小平のかほ。両眼見開、片手をさし出し、
小平 旦那さま。薬を下され。
トぢろりと見やる。伊右衛門、ぎよつとして、
伊右 又も死霊の。
大詰 蛇山庵室の場
いわ コリヤ、モウ、おまへ、お帰りなさんすのかへ。
伊右 ヲヽ、夜の更ぬ間に帰たくいたそう。左様いたして、又のごげんを。
ト行を引とめ、
いわ 夫みやしやんせ。おまへさんには、かわゆいお方、お岩さんと言お内儀さんが有ゆへに、いわゞわたしをおなぶり被成て。
伊右 イヤイヤ、何のそなたをなぶろうぞ。しかし、お岩と申した、女房もあつたが至て悪女。殊に心もかたましい、女じやゆへにりべつして。
トお岩、是を聞いて、
いわ スリヤ、先妻のお岩さん。夫ほどまでにあいそがつきて、未来よふごう見すてる心か。伊右衛門さん。
トきつと見つめ、伊右衛門、こわげだつて、
伊右 そふ言そなたの面ざしが、どふやらお岩に。
いわ 似たと思ふてござんすか。但しおもかげはさへわたる、あの月かげの移るがごとく、月は一ツ、かげは二ツも三ツ汐の、岩にせかるゝあの世のくげんを。
伊右 ヤヽ、なんと。
いわ うらめしいぞへ、伊右右衛門どの。
伊右 ヤ。
ト飛退はづみに、持たる鷹は鼠となつて、伊右衛門をめがけ飛懸る。此時、さへ行月へくろ雲懸り、うすどろどろ。黒まく落て、舞台一めんやみのけしき。此とたんにお岩引ぬき、あやしきお岩が死りようのこしらへ。大どろどろにて、両人、きつと成て、
伊右 扨こそお岩がしうねんの、鼠となつてさまたげなすか。
いわ ともにならくへゆうゑんせん。きたれや民谷。
伊右 おろかや、立され。
トぬいて切て懸る。大どろどろ、せうちう火あまた立のぼり、伊右衛門、心火を切はらい切はらい、せいこんつかれてくるしむ。よききつかけに糸車へ心火うつり、たちまち火の車となつて、かたわ車、火のつきしまゝ廻る。お岩、伊右衛門をれんりびきに引つけて、きつと見得。どろどろにて両人をせりおろす。此道ぐかわる。心の文字、下へ引おろす。下座で百万べんのかねの音。念仏のこゑにて道具かわる。日おゝひより、直に雪ふつて来る。