羅生門
―芥川龍之介の初期短編小説―
芥川龍之介(1892~1927)の短編小説。
大正4(1915)年11月、『帝国文学』に発表。
出典は『今昔物語集』巻第二十九「羅城門の上層に登りて死人を見たる盗人の語第十八」。
ある下人が羅生門で死人の髪を抜く老婆に出会い、その老婆の着物を奪い去る。
下人の「悪」に対する心理的葛藤を鋭く描いており、短編小説の傑作である。
或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。
広い門の下には、この男の外に誰もゐない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまつてゐる。
羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男の外には誰もゐない。
どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでゐる遑はない。選んでゐれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。
さうして、この門の上へ持つて来て、犬のやうに棄てられてしまふばかりである。選ばないとすれば――下人の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やつとこの局所へ逢着した。
しかしこの「すれば」は、何時までたつても、結局「すれば」であつた。下人は、手段を選ばないといふ事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける為に、当然、その後に来る可き「盗人になるより外に仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇気が出ずにゐたのである。
下人の眼は、その時、はじめて、其死骸の中に蹲つている人間を見た。桧肌色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のやうな老婆である。
その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持つて、その死骸の一つの顔を覗きこむやうに眺めてゐた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であらう。
しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて来た。それは、さつき門の下で、この男に欠けてゐた勇気である。
さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇気とは、全然、反対な方向に動かうとする勇気である。
下人は、饑死をするか盗人になるかに迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死などと云ふ事は、殆、考へる事さへ出来ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
下人の行方は、誰も知らない。
- 芥川龍之介(ウィキペディア)
- 羅生門(小説)(ウィキペディア)
- 作家別作品リスト:芥川竜之介(青空文庫)