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むぎ兵隊へいたい
―日中戦争の従軍記―

火野ひの葦平あしへい(1907~60)の小説。
昭和13年(1938)刊。

日中戦争の徐州作戦に参戦した従軍日記で、徐州へ向けて上海を出発した5月4日から、任務を終えて上海に帰ることの決まった22日までの従軍の模様が記されている。

兵士が戦場から送ったという臨場感と生々しさが反響をよんで、当時140万部という大ベストセラーとなった。
『土と兵隊』(1938)、『花と兵隊』(1938~39)とともにいわゆる「兵隊三部作」の最初の作品。

 五月十六日
……私は死ぬ時には、敵にも味方にも聞えるような声で、大日本帝国万歳と叫ぼうと思った。しかし、生きたい、生きられるだけは生きたい、とそう思うと、又も故国のことが思われて、胸が一ぱいになり、涙が出そうになった。

眼をつぶって祈る。砲弾は間断なく落下する。負傷者のうなごえがする。朝から何んにも食べないが、腹が減ったとは思わない。

少し眠ってみようと思い、自分の心を試験するつもりで、強いて何にも考えないように努め、横になったら少し眠れた。砲弾の音ですぐに眠がめ、後はどうしても眠れない。

火野葦平伍長ついに徐州戦線の花と散る、かな。そんなことが不意と頭に浮かび、少しも可笑おかしくなく、慄然りつぜんとした。

早朝負傷した兵隊を抱き起した時に軍服についた血が、眼に刺さるように、へんにきつく濃い色に映じる。一瞬の後には死ぬのかも知れない。――七時。