俘虜記
―捕虜収容所での記録小説集―
大岡昇平(1909~88)著。
昭和23年(1948)、『文学界』に発表。
創元社『合本 俘虜記』(1952)として刊行。
作者がフィリピンでの戦闘とアメリカ軍の捕虜となった状況を記録した短編小説集。
「死に直面した一人の日本兵が、眼前に現れた無防備の若いアメリカ兵をなぜ撃たなかったか」がテーマの「捉まるまで」など。
ただ叢を分けて歩く音だけが、ガサガサと鳴った。私はうながされる様に前を見た。そこには果して一人の米兵が現われていた。
私は果して射つ気がしなかった。 それは二十歳位の丈の高い若い米兵で、深い鉄兜の下で頰が赤かった。彼は銃を斜めに前方に支え、全身で立って、大股にゆっくりと、登山者の足取りで近づいて来た。
私はその不要心に呆れてしまった。彼はその前方に一人の日本兵の潜む可能性につき、些かの懸念も持たない様に見えた。
谷の向うの兵士が何か叫んだ。こっちの兵士が短く答えた。「そっちはどうだい」「異状なし」とでも話し合ったのであろう。兵士はなおもゆっくりと近づいて来た。(捉まるまで)
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