日本書紀
―我が国最初の正史―
日本最初の勅撰の歴史書。六国史の一つ。別名『日本紀』。全三〇巻。
養老四年(720)、元正天皇の命により、舎人親王らが撰した。
第一・二巻は神代、第三巻以下は神武天皇の代から持統天皇の終わりまでを編年体で記す。文章は、歌謡以外は純粋な漢文体で記されている。中国史書の影響が著しい。略称『書紀』。
古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、溟涬にして牙を含めり。其れ清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重濁れるものは、淹滞ゐて地と為るに及びて、精妙なるが合へるは摶り易く、重濁れるが凝りたるは竭り難し。故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます。
古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鷄子、溟涬而含牙。及其清陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合摶易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。
故曰はく、開闢くる初に、洲壌の浮れ漂へること、譬へば游魚の水上に浮けるが猶し。時に、天地の中に一物生れり。状葦牙の如し。便ち神と化為る。国常立尊と号す。至りて貴きをば尊と曰ふ。自余をば命と曰ふ。並に美挙等と訓ふ。下皆此に効へ。次に国狭槌尊。次に豊斟渟尊。凡て三の神ます。乾道独化す。所以に、此の純男を成せり。
故曰、開闢之初、洲壤浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物。状如葦牙。便化爲神。號國常立尊。至貴曰尊。自餘曰命。並訓美擧等也。下皆效此。次國狹槌尊。次豐斟渟尊。凡三神矣。乾道獨化。所以、成此純男。(巻第一 神代上)
夏四月の丙寅の朔戊辰に、皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ。一に曰はく、和ぐを以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ。人皆党有り。亦達る者少し。是を以て、或いは君父に順はず。乍隣里に違ふ。然れども、上和ぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、事理自づからに通ふ。何事か成らざらむ。二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万の国の極宗なり。何の世、何の人か、是の法を貴びずあらむ。人、尤悪しきもの鮮し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰りまつらずは、何を以てか枉れるを直さむ。
夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。二曰、篤敬三寶、々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能教從之。其不歸三寶、何以直枉。(巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇)
天皇、東宮に勅して鴻業を授く。乃ち辞譲びて曰はく、「臣が不幸き、元より多の病有り。何ぞ能く社稷を保たむ。願はくは、陛下、天下を挙げて皇后に附せたまへ。仍、大友皇子を立てて、儲君としたまへ。臣は、今日出家して、陛下の為に、功徳を修はむ」とまうしたまふ。天皇、聴したまふ。即日に、出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の兵器を収りて、悉に司に納めたまふ。壬午に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より返る。或の曰はく、「虎に翼を着けて放てり」といふ。是の夕に、嶋宮に御します。
天皇勅東宮授鴻業。乃辭讓之曰、臣之不幸、元有多病。何能保社稷。願陛下擧天下附皇后、仍立大友皇子、宜爲儲君。臣今日出家、爲陛下欲修功徳。天皇聽之。即日、出家法服。因以、收私兵器、悉納於司。壬午、入吉野宮。時左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮。(巻第二十八 天渟中原瀛真人天皇上 天武天皇)
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