黒い雨
―原爆を扱った井伏鱒二の代表作―
井伏鱒二の長編小説。
1965年(昭和40)1月号から66年9月号まで『新潮』に連載。
広島の原爆を扱った異色作。
被爆者閑間重松と、原爆症の症状が出始めた姪の矢須子との不安な日常を淡々と描いている。
野間文学賞受賞作品。
この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。二重にも三重にも負目を引受けているようなものである。
理由は、矢須子の縁が遠いという簡単なような事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、広島から四十何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であることを重松夫妻が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合せに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまう。
以上、僕は今ではもう原爆の怖しさについて、口をつぐんでいる必要がなくなったので、保健婦たちのお灸のまじないも偽りない実状として書きとめた。焼跡を歩きまわって来た人たちの死亡率も統計的に記した。理由は、先日まで姪の矢須子の縁談が加速度的に捗りかけていたが、不意に先方の青乃から断って来て、おまけに矢須子が原爆病の症状を現し始めたからである。
已んぬるかなである。事ここに及んでは隠し通せるものでもなく、隠して置く必要もなくなった。矢須子は先方に宛て、自分にその症状が現れはじめたことを泣きの涙の手紙で知らせたらしい。先方に対する愛情から打ちあける決心をしたのだろうか。絶望感から衝動的にそれをしたのだろうか。
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