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福翁ふくおう自伝じでん
―自伝文学の最高傑作―

福沢諭吉(1834~1901)の自伝。明治32年(1899)刊。
口述筆記に加筆補訂して明治31年(1898)~明治32年(1899)「時事新報」紙上に掲載。

叙述の大半は維新までの前半生にあてられ、後半生は「老余の半生」の一節に素描されている。

少年時代、長崎修業時代、緒方洪庵塾時代、三度の洋行、維新時代について、平易な談話体で描かれている。日本人の自伝の最高傑作。

大阪を去って江戸に行く

 英学発心
 ソコデもって、蘭学社会の相場は大抵わかってまず安心ではあったが、さてまたここにだい不安心なことが生じて来た。

私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国条約というものが発布になったので、横浜はまさしく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。

その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイチョイ出来て、外国人が其処そこに住まって店を出している。

其処そこへ行ってみたところが、一寸ちょいとも言葉が通じない。此方こっちの言うこともわからなければ、彼方あっちの言うことも勿論もちろんわからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。

何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブラブラ歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店にち当たった。

その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。此方こっちの言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろいろな話をしたり、一寸ちょいと買物をしたりして江戸に帰って来た。

御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行ってその晩の十二時に帰ったから、丁度一昼夜歩いていたけだ。

 小石川に通う
 横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしてしまった。これはこれはどうも仕方がない、今まで数年の間、死物狂しにものぐるいになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今はなんにもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬことをしたわいと、実に落胆してしまった。

けれども決して落胆していられる場合でない。あすこに行われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。ところで今、世界に英語の普通に行われているということはかねて知っている。

なんでもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかかっている、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければとてなんにも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰った翌日だ、一度ひとたびは落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟をめて、さてその英語を学ぶということについて如何どうしていか取付端とりつきはがない。

江戸中にどこで英語を教えているという所のあろうけもない。けれども段々聞いてみると、その時に条約を結ぶというがために、長崎の通詞の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用を勤めている。

その人が英語を知っているといううわさを聞き出したから、ソコで森山の家に行って習いましょうとこう思うて、その森山という人は小石川の水道町に住居じゅうきょしていたから、早速その家に行って英語教授のことを頼み入ると、森山の言うに「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというならば教えて進ぜよう、ついては毎日出勤前、朝早く来い」ということになって、そのとき私は鉄砲洲に住まっていて、鉄砲洲から小石川までやがて二里余もありましょう、毎朝まいあさ早く起きて行く。

ところが、「今日きょうはもう出勤前だからまた明朝みょうちょう来てくれ」、くる朝早く行くと、「人が来ていてかない」と言う。

如何どうしても教えてくれる暇がない。ソレは森山の不親切というけではない、条約を結ぼうという時だから、なかなか忙しくて実際に教える暇がありはしない。

そうすると、こんなに毎朝まいちょう来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来てくれぬかと言う。ソレじゃ晩に参りましょうと言って、今度は日暮ひぐれから出掛けて行く。

あの往来は、丁度今の神田橋一橋外ひとつばしそとの高等商業学校のあるあたりで、と護持院ガ原というて、大きな松の樹などが生繁おいしげっている恐ろしいさびしい所で、追剝おいはぎでも出そうな所だ。

そこを小石川から帰途かえりみちに夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さというものは今でもく覚えている。ところが、この夜稽古よげいこも矢張り同じことで、今晩は客がある、イヤ急に外国方(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬというような訳けで、とんと仕方がない。

およそそこに二月ふたつき三月みつき通うたけれども、どうにも暇がない。とてもこんなことでは何も覚えることも出来ない。加うるに森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない、ようやく少し発音を心得ているというくらい。とてもこれは仕方がないと、余儀なく断念。

 蕃書調所に入門
 その前に私が横浜に行った時に、キニッフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買って来た。ソレをひとりで読むとしたところで、字書がない。

英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人ひとりすことが出来るから、どうか字書を欲しいものだといったところで、横浜に字書などを売るところはない。なんとも仕方がない。

ところがその時に、九段下に蕃書ばんしょ調所しらべじょという幕府の洋学校がある。そこには色々な字書があるということを聞き出したから、如何どうかしてその字書を借りたいものだ。

借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出し抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいといっても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居というものが願書に奥印をしてしかる後に入門を許すという。

それから藩の留守居の所に行って奥印のことを頼み、私はmojikyo_font_065717mojikyo_font_065718を着て蕃書調所に行って入門を願うた。

その時には箕作みつくり麟祥りんしょうのお祖父じいさんの箕作阮甫げんぽという人が調所の頭取で、さっそく入門を許してくれて、入門すれば字書を借りることが出来る。

すぐに拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に受け取って、通学生のいる部屋があるから、そこでしばらく見て、それから懐中の風呂敷を出してその字書を包んで帰ろうとすると、ソレはならぬ、ここで見るならば許して苦しくないが、家に持ち帰ることは出来ませぬと、その係の者が言う。

こりゃ仕方がない、鉄砲洲から九段坂下まで毎日字引を引きに行くということはとても間に合わぬ話だ。ソレも、ようやく入門して、たった一日行ったきりで断念。

 さて如何どうしたらかろうかと考えた。ところで、だんたん横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んでおいたところが、ホルトロップという英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。

誠に小さな字引だけれども価五両という。それから私は奥平の藩に歎願して買い取って貰って、サアもうこれで宜しい、この字引さえあればもう先生はらないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首っ引きで、毎日毎夜ひとり勉強。

またあるいは英文の書を蘭語に翻訳してみて、英文に慣れることばかり心掛けていました。

 英学の友を求む
 そこで自分の一身はそうめたところで、これは如何どうしても朋友がなくてはならぬ。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者はことごとく不便を感じているに違いない。

とても今まで学んだのは役に立たない。何でも朋友に相談をしてみようとこう思うたが、このこともなかなかやすくないというのは、その時の蘭学者自体の考えは、私を始めとして皆、数年すねんの間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、まるでこれを捨ててしまって英学に移ろうとすれば、新たに元の通りの苦しみをもう一度しなければならぬ。

誠になさけないつらい話である。たとえば五年も三年も水練を勉強して、ようやく泳ぐことが出来るようになったところで、その水練をめて今度は木登りを始めようというのと同じことで、以前の勉強が丸でくうになると、こう考えたものだから、如何どうにも決断がむつかしい。

ソコデ学友の神田孝平たかひらに面会して、如何どうしても英語をやろうじゃないかと相談を掛けると、神田の言うに「イヤもう僕もうから考えていて実は少し試みた。試みたが如何いかにも取付端とりつきはがない。どこから取り付いていか実にけがわからない。

しかし年月をれば何か英書を読むという小口こぐちが立つに違いないが、今のところではなんとも仕方がない。マア君たちは元気がいからやってくれ、大抵方角が付くと僕もきつとやるから、ダガ今のところでは何分自分でやろうと思わない」と言う。

それから番町の村田蔵六ぞうろく(後に大村益次郎)の所に行って、その通りに勧めたところが、これは如何どうしてもやらぬという考えで、神田とは丸で説が違う。

「無益なことをするな。僕はそんな物は読まぬ。らざることだ。何もそんな困難な英書を、辛苦して読むがものはないじゃないか。必要な書は皆オランダ人が翻訳するから、その翻訳書を読めばソレで沢山じゃないか」と言う。

「なるほどそれも一説だが、けれどもオランダ人が何もかも一々翻訳するものじゃない。僕は先頃せんころ横浜に行ってあきれてしまった。この塩梅あんばいではとても蘭学は役に立たぬ。

是非英書を読まなくてはならなではないか」と勧むれども、村田はなかなか同意せず「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。やるなら君たちはやり給え。僕は必要があれば蘭人の翻訳したのを読むから構わぬ」と威張っている。

これはとても仕方がないというので、今度は小石川にいる原田敬策にその話をすると、原田はごく熱心で「何でもやろう。誰がどう言うても構わぬ。是非やろう」と言うから「そうか、ソレは面白い。そんなら二人ふたりでやろう。

どんなことがあってもやりげようではないか」というので、原田とはごく説が合うて、いよいよ英書を読むという時に、長崎から来ていた子供があって、その子供が英語を知っているというので、そんな子供を呼んで来て発音を習うたり、またあるいは漂流人で折節おりふし帰るものがある、長く彼方あつちへ漂流していた者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある。

その時に、英学で一番むつかしいというのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうというのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、子供でもければ漂流人でも構わぬ、そういう者を捜し回っては学んでいました。

始めはまず英文を蘭文に翻訳することを試み、一字々々字を引いて、ソレを蘭文に書き直せば、ちゃんと蘭文になって、文章の意味を取ることに苦労はない。

ただその英文の語音ごいんを正しくするのに苦しんだが、これも次第にいとぐちが開けて来ればそれほどの難渋なんじゅうでもなし、詰まるところは最初私共が蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を捨ててしまい、数年すねん勉強の結果をむなしうして生涯二度の艱難かんなん辛苦しんくと思いしは大間違いの話で、実際を見れば蘭といい英というもひとしく横文おうぶんにして、その文法もほぼ相同じければ、蘭書読む力はおのずから英書にも適用して、決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは、一時の迷いであったということを発明しました。